マラソン大会に参加したことはなかったが、きっと一次試験みたいな感じなのだろう。
本来なら地上で太陽の光を浴びて走るらしいが、もう二度と体験したくない。
一転して今度は食材探しだ。魚、魚と、うわ言のように呟きながら狩りへ向かう受験者達が不気味に見える。
それにしても、スシか。
スシは食べたことがあるはずだ。でも「多分食べた」という程度の記憶なのではっきりしない。しかし魚なんて使っていたっけ?
考えながら歩いていたせいで、泥に足がはまって転びそうになった。慌てて体勢を立て直したので事なきを得たが、それを見てキルアが愉快そうに笑っていた。
「だっせー」
「……そんなこというと君も道連れにするよ」
「うわっ、引っ張んなって!」
反射的にキルアの腕を掴んだが、彼の助けがなくても足は簡単に抜けた。ブーツが泥まみれになったので、魚を探すついでに川で汚れを落としたい。
自分に弟がいたらキルアと話している時みたいな感じになるんだろうか。生意気だが、嫌な気分にはならない。
弟がいたら、というか弟はいるのだが、生まれてから一度も会ってないので実感がない。10歳近く離れた弟の髪や瞳がどんな色なのかも知らない。唯一だけは知っている。
一度も会っていなければ愛情がほとんどないのは当然で、弟がどうなっていようと家出した自分には関係ない。
薄情と言われても仕方がないが、レオリオがこの場にいるのもあり面倒なので言わないでおいた方がよさそうだ。
「一次試験の場所、じめじめしてたね」
「野郎の汗と涙のせいだろ、きっと」
「レオリオのも含まれてるんだろうな」
「そこ、うるせーぞ!」
背後からの苦情は無視して作業に集中しよう。
その辺に落ちている木の枝で丈夫そうなものを研いでいく。鋭く研げば銛の代わりになるだろうか。血の匂いにおびき寄せられる魚はいなさそうなので、こうして地道に作るしかない。
ハンターと言えば賞金首を連想するが、よくよく考えてみれば本来の意味は森の狩人とかそういうものではないだろうか。こうして狩りのための道具を作っているとそんな予感がした。
泥とか虫とかに慣れていないと、やっぱりハンターは向いてないのかもしれない。
「まだ研いでんの?」
「そうだよ」
「結構上手いじゃん」
特別手先が器用というわけではないが、お世辞でも褒められるのは悪くない。
暇を持て余したらしいキルアが隣に腰かけた。私の真似をしているのか、同じように枝を適当な石で研ぎ始めた。
「さっきの地下通路、拷問室みたいだったな」
「藪から棒に何を言うかと思ったら……」
「お前もそう思うだろ?」
どことなくこちらを伺うというか、試しているような気がする。
研ぐ手を止めずに曖昧な返事をした。
「そうかもね」
「実際はもっと狭くて鉄の錆びた匂いがするけどな」
「独房と何が違うの?」
「監禁するか否か……ってか、うちじゃどっちも同じようなもんだった。違いわかんねー」
「機械音とかすれば拷問室で、そうじゃなければ独房とか?」
「あーなるほど。機械を使ったやつもあるよな」
ここで言う機械音とは当然ボイラーや受水槽の音ではない。会話の流れからそれを理解したらしいレオリオは露骨に気持ち悪そうな顔をした。
「なぁ、もしかしても元暗殺者?」
お前の出身どこ?くらいのフランクさで訊ねるのはどうなんだろう。
魚を捜索している皆の動きが止まった気配がした。視界にいるゴンだけが水面に顔を突っ込んでいたので聞こえていいようだ。魚の様子でも窺っているのだろうか。
いつの間にか私の手も止まっていた。図星を突かれたからというわけではない。一瞬だけ思考が止まったが、面白い考察に少しだけ笑みが漏れた。
「違うよ。何でそう思うの」
「うーんやっぱ違うか。だよな、なんか殺し屋って雰囲気じゃないし」
「殺し屋に狙われたことはあるけど」
えっ、というレオリオの声が聞こえた。
キルアの好奇心を刺激してしまったらしい。別に隠すことではなかったけれど、言わなくてもいいことを言った気がする。
「マジ?もしかしてうち?」
「えーと、キルアの家ってどこ?」
「ゾルディック」
「じゃあ違う」
「どいつ?」
「確か、カランドロ……だっけ」
「なんだ、三流かよ」
つまらなそうに吐き捨てられた。ゾルディックほどの有名な殺し屋が言うならその通りなのかもしれない。
恐らくもう二度と殺し屋と関わることはもうないだろうと考えていたので、まさかゾルディック家の人間に出会うとは思いもしなかった。
キルアが自らを元殺し屋と名乗らなければ納得できなかったが、カランドロを三流と言うだけはある。彼の見た目に騙されるということではなく、纏っている雰囲気が普通の子どものそれとは違う。
カランドロの殺し屋を差し向けられた時、守ってくれた人がいたから事なきを得たが、キルアのような相手であればあっさり殺されていただろう。気配がどうということではなく、油断によるところが大きい。
「確かカランドロって足がつかないことで有名だし、口も割らないし、だから雇ったんじゃないかな」
「でもバレてんじゃん」
「全部知ったのは家出するちょっと前だけどね」
「ふーん。よく生きてたな」
感嘆というよりは珍しい物でも見たような言い方だった。
裕福で非力な小娘がプロの殺し屋を退けるには護衛に守ってもらうしかないので、称賛するのであれば彼らの方だろう。
「誰かの恨みでも買った?」
「身に覚えがないから、単に私のことが嫌いだったんじゃないかな」
恨みと憎しみは同じだと思っていたが少し違う。それらから生まれた動機で殺されるのは、心当たりがない場合、当事者としては理不尽である。
殺したいと思ってしまったら、普通の人はその気持ちが増すのを抑えるはずだ。行動に移すのはその気持ちに耐えきれなかったり、我慢することを良しとしない者だろう。
大抵は悪い感情から芽生えることだが「好きだから殺す」という人がいても不思議ではない。そんな変態に会ったことはないが。
ただ私の場合は「嫌いだから殺す」という、人間が抱く至極真っ当な感情によるものだろう。
「ゾルディックにくる依頼だってそういうのあったでしょ?あいつムカつくから殺してくれとか。皆が皆そうじゃないとは思うけど」
「まあな。嫌いっていうか邪魔だからって理由の方がしっくりくるけど」
「……私が聞いておいてなんだけど、守秘義務とか守らなくていいの?」
「だって今は殺し屋じゃないからな。別に困ることないし」
その理由になるほど、と納得しそうになった。それでいいのかと思いとどまったのは、自信が過ぎれば傲慢になると恩師に言われたことを思い出したからだ。
本来なら「自信」ではなく「謙虚」が当てはまるが、きっと自分にそういう気質や才能に近いものがあったからこそ、恩師はそう言ったのだろう。
キルアは殺し屋であった自分を隠そうとしない。むしろその気がない。
誇るべきことだから、恥ずべきことではないから。理由はきっとそうではない。自分の実力に自信があるから、というのが当てはまるのではないか。だからここでばらしても関係ない。
というか、恩師には私がこんな風に見えていたということか?流石にキルアよりは控えめだと思う、が……
「カランドロで思い出したけど、何番目かの息子が行方不明らしいぜ」
またもや唐突に、キルアが試している。
気遣いも空気を読むということもキルアの辞書にはないらしい。わざと言っているのかもしれないが、こういう面は世間知らずにも見える。
ベクトルは違うが、家出したばかりの自分に似ているかもしれない。恥ずかしくなってきた。
後ろからも視線を感じる。どうして凝視されているのか不思議でたまらない……そういえばつい先ほどまで危険な組織の人間と勘違いされていたんだっけ。
「私やキルアと同じで家出したんじゃない?」
「いい歳した男が何年も家出してんのかよ」
「私も家出して5年くらい経つよ。殺し屋が転職活動してたら面白いよね」
「その響き、元殺し屋には全然しっくりこねーよ」
「サラリーマンから俳優になった人だっているし、なくはないでしょ」
ようやく研ぎ終わった枝の銛を持って水面を眺めた。水が澄んでいるせいか、太陽の光で川の底まで見える。
4人から少し離れた場所で魚を探そうと、そっとその場を離れた。やけにクラピカが静かだったが、離れる時にこちらに背を向けていたので表情までは窺えなかった。
背後でレオリオが転職した例の俳優について話しているのが聞こえた。上手い具合に話題がすり替わってくれた。
それより魚を探さなければ。スシ、スシ……と考えているうちに重要なことを思い出して「あっ」と声を出していた。
「そういえば、スシ食べ損ねたんだ……」
夕食に遠い東の国の料理が食べられるとわくわくしていたのに、血生臭い出来事があったせいで生ものを食べる気分ではなくなってしまったのだ。
がっかりしたが、今は魚を探さなければ。料理なんてしたことはないが、なんとかなるだろう。
少し離れたところでキルアとゴンの笑い声が聞こえた。今度はもうちょっと違う明るい話をしたいな。そうしているとスシを食べ損ねた日のことも思い出した。
透明な水面を覗くと底が見える。すーっと泳いできた魚と目が合ったような気がしたが、すぐに逃げて行った。
人の顔のように見えたが、この湿原には人面猿もいたし不思議ではない。しかし水の中に、人の顔か。
本当に、どこに行っちゃったんだろうね。