07
クロロがなんとか自力で宿に辿り着いてから数時間が経った。ベッド倒れてからは呼吸が荒くなり、全身が熱くて爛れそうなほどだった。気絶することはなかったが熱に浮かされ覚束ない足取りだったので、自分がどこをどう通って帰って来たのかはっきり覚えていなかった。
ぼんやり見えるのは薄暗い中に窓から射す月明かり。自分の身に何が起こっているのか全く分からず、体に残る気持ち悪さとひたすら戦わなければいけなかった。
全身が熱く思うように体を動かせない。気持ち悪さをごまかすように寝返りを打った。水が欲しいのに自力で取りに行けそうにもなかった。汗ばんだシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。今は安全でも誰かが来た時に、今の体調では逃げきれるかどうかだけが心配だ。古城から逃げた時に誰にも見られていないとは言い切れないからだ。
どうしたものかと考えているとコツコツと足音が外から響いた。誰かが階段を上っている。宿泊客だろうかと思ったが、足音はこの部屋のすぐ側で止まった。万が一のため念を使おうとクロロが身構えていると、控えめなノックが鳴った。何も返さなかったがしばらくすると聞き覚えのある声がかすかに聞こえた。
「……クロロさん?私です、です」
妙に冷静になったクロロは気配を殺した。しかし扉が静かに開かれ、人影が部屋に入ってくる。暗い上に視界がぼやけているのではっきりとした姿形は分からないが、声は確かにだった。
クロロは何の目的でがここに来たのか理解できなかった。彼女もクロロの出方を伺っているのか、それ以上何も言わずその場から動かない。けれどもしばらくしてから扉を閉めて内側から鍵をかけた。
は少し怯えていたが、クロロの顔を見るなりほっとした。しかし明らかに大丈夫ではない様子を見て慌てて駆け寄った。そっとクロロの手に触れた手はひんやりとしている。
「具合は大丈夫ですか?」
「……これがそう見える?」
ベッドから上体を起こしたクロロは壁にもたれかかり、苦しげに笑った。それがの心臓を締め付ける。
は思い出したかのようにごそごそとポケットから何かを取り出した。彼女の手に握られていたのは透明な小瓶。僅かな明かりの中でその中身は赤く煌めいた。そしてクロロの手にそれを押し付ける。
「これを飲んでください」
「それ毒?苦しまず一瞬で死ねるとか?」
散々な目に遭った上に、その原因はかもしれないのだ。調子が悪くなければ拷問して殺しているところだった。
冷たく笑うクロロに一瞬は怯んだ。受け取ろうとしないので代わりにが小瓶の蓋を開ける。そしてそれをクロロに無理矢理飲ませようとしたが、勿論抵抗する。
「お願いします、飲み込んでください!」
クロロの頬を抑え、力づくで飲ませようとすると今度はクロロの体がベッドの上で仰向けに倒れた。無礼を承知の上では馬乗りになってクロロを押さえつけ、瓶を口まで運ぼうとする。
顔面を手で押さえられた時、クロロの口に生温かい液体が流れ込んだ。吐き出しそうになるのをがクロロの口を手で塞ぐ。傍から見れば窒息させている最中にも見える。仰向けのせいか、いとも簡単に喉を液体が通っていく。独特の鉄の味はどう考えても血だが、それにしては薬のような苦味も感じる。下の上に残る味がじりじりと口内を浸食していくような気分だった。
ごくん、とクロロが液体を飲み込んだのを確認すると、はようやく彼の顔から手を離した。何度も咳き込んだクロロは、体から熱が引いていくのを感じた。
「げほっ……なんだ、これ」
「ごめんなさい……こうでもしないと飲んでくれないと思って」
むせ返るほどの味はなかなか消えようとしない。ほんの僅かだけ、飲み込んでしまった。残りの液体が口からぼたぼたと溢れていく。
クロロが落ち着くまで相当な時間がかかった。咳がおさまる頃には体の調子は限りなく元に戻っていた。倦怠感は残るが、熱もないし視界も意識もはっきりしている。
口の端から零れ落ちた血を手の甲で拭い、やっと見えたの顔は疲労と安心感で満たされていた。
「何を飲ませた?」
床に落ちている小瓶をクロロが顎で指すと、は気まずそうに目を伏せた。無理矢理飲ませたくせに今更何を迷っているんだ。あれも毒なら早めに対処しなければいけない。
警戒心なんてまるでない様子のの手首を掴み、そのまま力任せに組み敷いた。ついさっきと形勢逆転、前後左右と上下にも逃げ場なんてない。
クロロの唐突な行動には目を見開いた。自分を見下ろす男の顔は、昼間はこんなに冷たくなかった。殺されるかもしれないと、この時は初めて危機感を抱いた。
「いくつか聞きたいことがある。城で起こったことは覚えているか?」
「え……そ、その、城内を歩いていたことまでは覚えてます」
「それで?ここへ来る直前、どこにいた?」
ぎりぎりと手首を絞める力が強くなった。身動きも取れない状況での心臓の鼓動は鳴りやまない。調子を取り戻したクロロに力で敵うはずがなかった。
一方クロロは、自分の下で怯える女を見て様々な憶測が過ぎった。けれどもどう見てもは一般人。裏で糸を引く人物がこの国にいるならば、何故こんな女を使ったのかが分からない。
一向にクロロはの上から退こうとはしなかった。薄暗い部屋のせいでお互いの顔色なんて分からないが、の顔は真っ青だ。手首が圧迫されているせいで指先が冷たくなってきた。恐怖と後悔、色々な気持ちが混ざり合い、やっとの口から出たのは命乞いのようにも聞こえるものだった。
「ごめんなさい……あの人達が乱暴なことをしたなら謝ります」
「誰のことだ?」
「私、あの人達のことは本当に何も知らないんです……でも……」
「でも、何だ?」
声が震えて上手く言葉が続かないを尋問するかのように促す。黙っていれば殺されるかもしれない。嘘を吐けば殺されるかもしれない。正直に話しても結局殺されるかもしれない。何を優先して話せばいいのかと、は必死に考え続けた。
ぽたりとの頬に何かが落ちた。拭いきれなかった液体がクロロの口から落ちたのだ。それを見ては少しだけ冷静になり、クロロから目を逸らさずに真っ直ぐ向き合う。怯えながらも少しずつ声を絞り出して本音を話し始めた。
「彼らが貴方をどうするのか、想像したくありません。ですから早くこの街から逃げてください」
「それはつまり、誰かが俺を殺しに来ると言うことか?」
肯定も否定もしないのが既に肯定だ。聖職者にとって殺人は最も非人道的なことであるのだ。にはその言葉を濁して伝えるだけで精一杯だった。
勿論クロロがそんなことで不安を覚えることはない。脅しや殺しなんて盗賊にとっては日常茶飯事だ。こんな田舎でそいつらは何をしているのかという質問は無意味だ。何かを守るように言われて雇われているに違いない。
しばらくクロロはの目をじっと見つめていた。そして彼女の手首を絞める手を緩め、ゆっくりと上から退いた。解放されたことに気づくまで数秒かかったは起き上がった後、後ずさりするようにベッドの端まで移動した。絞められた手首は痣ができて指先は真っ白になっていた。
「拘束してもいいがこの方が楽に話せるだろう。そのまま質問に答えろ」
もうクロロはあの冷たい表情をしていなかった。ベッドから降りて肩を回したり腕を伸ばしたり、リラックスしている姿はまるで旅行で一日中歩き回って疲れた観光客のようだ。強ち間違ってもいないのだが、唐突な変化には思わず面食らった。
自分の指先をもう片方の手で覆って温めていたは、目の前の青年が誰だか分からなくなる。逃げろと言ったのに逃げる素振りさえ見せない、殺気を自分に向けたのに殺そうともしない、この青年は一体誰なのか。
二人の視線がぶつかった時、思い出したかのように「逃げようとしたら殺す」とクロロが付け足したので、の背中に冷やりとしたものが流れた。
(2016.03.05)