09
窓から見える景色は墓地と森のみ。小さな部屋は首都の修道院と比べたら質素に見えるが、シスターが一人で暮らすには充分な広さだ。
はなかなか眠ることができず、何度も寝返りを打った。昨晩の出来事が全部夢であって欲しい。何故そんな風に思うのか、自分の中に芽生えた恐怖が何に対してのものなのかが分からないから余計にそう考えてしまう。
しかしそんな願いが叶うはずもなく夜が明けた。なかなか眠れなかったが頭は妙に冴えている。しかし体が重くて動かず、ベッドから体を起こしてカーテンの隙間から漏れる日光をしばらく眺めていた。
教会に行かなくては。いつもの日常へ戻らなければ。昨日は日曜日、今日は月曜日。それから時計を見てやっと覚醒した。
カーテンを開いてクローゼットから服を引っ張り出し、着替えて部屋を出て身支度を行う。何一つ変わらない自宅はいつも通りだ。
しかし簡素なリビングはいつもの景色とは違っていた。
「やぁ、おはよう」
そう言ってクロロはわざとらしいくらいにとびきりの笑顔を作った。コーヒーを片手に新聞読む姿が不思議なくらいこの空間に合っている。
その口調と笑顔が崩れなかったらは「あれは夢だった」と安心しただろう。けれどもやっぱり現実に起こったことだった。それを思い知らされるのは挨拶の後にクロロが続けた言葉のせいだ。
「手首は折れていないようだな。うん、加減した甲斐があった」
顔が引きつるのを感じた。上着を羽織った手首はクロロに見えてはいないはずだが、そこには青々とした痣が出来ている。そして彼の言う通り骨に異常はない。
自宅に人を招いたことのないにとって初めての来客、しかも宿泊させなければいけない相手がクロロである。
こんなことが神父や街の人達に知られたらと思うと今すぐ告解したくなった。天罰でも何でも受ける気はあっても簡単にそんなものが降って来るはずがない。
昨晩、然も病人であるかのように「心優しいシスターは具合の悪い旅人を放っておいたりはしないよな?」と言われて断ることなどできようか。ぬけぬけとそんなことを言った男の世辞は皮肉と脅迫めいた雰囲気を漂わせていた。
かと言って断っていたらあの場で殺されていただろう。二択を迫っているようで結局彼が望む答えは一つだけなのだからには選びようがなかった。
「そうそう。恐らく今日俺のことについて聞きたがる男が教会に来るはずだが、自分は無関係だと言って適当に流しておけばいい」
「えっと、それはクロロさんが城で会った方ですか?」
「違う。一昨日お前のところに来てた頭がお花畑なあの男だ」
その説明のせいでますます誰のことなのか分からなくなったが、一昨日来ていた男はクロロを除いて一人だけだからようやく一致した。
お花畑とは、と訊ねようとするとクロロが先に言葉を続けた。
「下手な説明をしたらそいつを始末しないといけなくなるから面倒事は避けたい」
「し、始末……?」
「言葉通りの意味だよ」
新聞に目を通しながらさらりと言った。「ごみの始末」と同じニュアンスに聞こえた気がしたのはきっと気のせいだ。
クロロについて何も知らない状態、例えば昨日の昼に交わした会話の中でこんな言葉が出てきたのならどういう意味か訊ねたに違いない。
もうそんな気さえ起こらないのはクロロがどういう人間であるのか、ほんの少しだけだが知ってしまったから。直接的な言葉でなく、それが詩的に表現された言葉だったとしても、どういう意味なのか今のにはすぐに分かってしまう。
敢えて聞き返すのはかえって体に毒。ただでさえ祭りの準備疲れと昨日の出来事のせいで血の気のない顔をしているのだ。
そんなの気なんてお構いなしにクロロはあくまでも自分のペースを貫いた。
「朝食は食べる?」
「え?いや……大丈夫です。遅刻してしまいそうなので」
「そう、残念だな」
この家で朝食を済ますつもりなのだろう。もう既に私物を使用されているので今更何か言おうとは思わなかった。むしろクロロが馴染み過ぎていることに違和感を抱いている自分の方が異常なのではとさえ思えてくる。
リビングを出ようと廊下に繋がる扉を開けようとしたところで立ち止まり、恐る恐るクロロの方に振り向いた。
「私は出かけますが、あの、危ないことはしないで下さいね」
「それはどういう意味の危ないことかな」
「怪我とか、犯罪とか……色々」
もっと他に具体例があるはずなのだがは大雑把にしか言えなかった。釘を刺しておいたところでクロロが従う気はないような気がしたが、言っておかねば何をしでかすか分からない。
クロロはコーヒーを飲み干してカップをテーブルの上に置くと、自らの手を開いたり握ったりして見せた。昨晩と同じことをしているが、朝日の下では至って健康そうに見える。
「今のところ体に異常はないけど、昨日飲まされた物は気になるから今日は安静にしているよ。犯罪に関してはそうだな……今は安心していればいい。何も情報がないから動きようがないんだ」
でもそれは仲間の到着次第。そこまで教えてやるつもりは毛頭ない。
流石に学習したのか、クロロの言葉全てに納得したわけではないは何も言わずに訝し気な表情を浮かべた。
嘘つきだとでも思われているのだろう――クロロはそれを否定しようとも思わなかった。勝手に疑心暗鬼になっていればいい。に備わっているかは分からないが、聖職者特有の正義感を振りかざして邪魔をされる方が厄介だ。
何か言いたげなが口を開く前にクロロは手をひらひらと振った。
「時間が惜しいんだろ?ほら、行ってらっしゃい」
「い、行ってきます……?」
普通に送り出してもらっているのが不思議で仕方がない。普通人の家に上がったら多少なりとも緊張したり遠慮したりするものだが、クロロにはそれがまるでないのだ。
しかしの葛藤はおさまらなかった。神に仕える身でありながら不健全極まりない。教会に着いたら誰も来ないうちに告解しなければ。
そればかり考えていたせいで、クロロに他に言っておくべきだった事項についてまで考えが回らなかった。何より強調するべきだった「自室には入らないで欲しい」ということは、のクロロに対する信用が急降下している今、そんなことを言っても無意味だ。
あちこちが痛む体を引きずり、頭を抱えながら教会へと向かう姿はさながらの方が病人のようだった。
午後は教会に訪れる人がぽつりぽつりと増え、もそれなりに忙しくなる。午前中に顔を合わせた神父に顔色の悪さを指摘されて少し休ませてもらったが、彼がいなくなったこの時間は一人で仕事をしなくてはいけない。
疲れていないと言えば嘘になるが、休んでいるよりもせかせか動き回っていた方が気が紛れて楽だった。
そんな中でにとっての「会話をするのが億劫になってしまう相手」が訪れると、せっかく本調子に戻っていたと言うのに立ちくらんでしまいそうになる。
先日のあの男がいる。クロロ曰く「頭がお花畑」の男が、他の参拝者の目を気にしながら教会の入り口付近でうろうろしていた。思わずそちらに背を向けてしまう。
嫌いとは思わないができれば今は話したくない。一瞬でもそんな考えを思い浮かべた自分を恥じてはかぶりを振った。
女神像の方を向いたままでいると、静かな聖堂に誰かの足音がコツコツと響いた。皆祈りを捧げている中でその足音は軽やかだ。自分に向かって進められる足音に振り返ることができなかったのだが、かけられた声は高らかな女性のものだった。
「あのう、すみません。少しよろしいですか?」
この清い空間に配慮してか、女性は声を落としてに訊ねた。
ついさっきまでこんな女性はいなかった。もしそこにいたら思わず二度見してしまうだろう。と言うのも、この街では珍しい風貌をした女性だからだ。
石畳がほとんどを占めるこの街でヒールの高い靴を履く女性は少ない。そして地元の人間ではないであろうかっちりとしたスーツを着こみ、赤い口紅を施している。街に出たら誰もが振り返りそうな美しい女性はエリスと名乗った。
「この度の祭を支援するために首都から派遣された者ですが、神父様はいらっしゃいますか?」
「彼なら市長の自宅に……ああ、今日は広場の方に行っていると思いますよ」
「そうでしたか。ありがとうございます。では後ほどそちらに向かいます」
首都の人間はがこの街に来たばかりの頃は頻繁に訪れていたが、今ではその回数は減ってきている。表情を殆ど変えず事務的な喋り方をする彼らを苦手に思っていたので、エリスが彼らと同じところからやって来たと聞いて身構えてしまった。
しかしこの街へ訪れる人間はいつも同じ人物だったので彼女とは初対面だ。
彼女は自分と同じ女性であり穏やかな喋り方をする。人の良さそうな顔で微笑まれて、は少し緊張がほぐれた気がした。
「貴方にも少々訊ねたいことがあるのですが、お時間をいただけないでしょうか?」
「それは祭のことですか?」
「はい。あと、首都の修道院からの言伝もありますので」
ちらりと椅子に座る参拝者達を見たが、誰もこちらに目を向けていない。は胸を撫で下ろし、小さな声で了承の旨を伝えた。
エリスは後ほどまた伺うと伝え、立ち去ろうとする前に入口の方を見て訊ねた。
「ところで、入口でうろうろしているあの方は……?」
怪訝な顔をして彼女が見つめるその先には例のあの男。もつられてそちらを向いたのだが、男はエリスと視線がかち合うと即座にその場を離れて行った。
(2016.09.22)