教会の奥には控室がある。休憩する時や急な来客が来た時のための小部屋だ。
エリスをそこに招いてお湯を沸かしている間、包帯の巻かれた腕を何度もさすった。何も覚えていないことが怖くてたまらない。自分がいつの間にか罪を犯してしまっているのではないかと不安に駆られる。
そっと腕を握ると傷跡がずきずきと傷む。怪我を負ったのは、いつも癖で握りしめる箇所よりも上だ。傷口は見たくないが、帰ったら薬を塗っておかなければいけない。
エリスに紅茶を出して向かい側にも腰かけた。膝に置いた手が落ち着かず、怪我をした方の手を無意識のうちに握りしめていた。
どこかそわそわした様子のを不思議に思い、カップを置いたエリスは首を傾げる。
「顔色が悪いですね。具合が悪いんですか?」
「いえ、ちょっと寝不足なだけです。」
厄介なことに巻き込まれてしまった、なんて口が裂けても言えない。クロロのことは神父にさえも相談できそうになかった。
「そうですか……でも今日はやめておいた方がよさそうですね、アレ」
「私は構いませんが」
「そう言って修道院にいた頃、倒れたそうじゃないですか。駄目ですよ、体は大切にしないと」
エリスが首都から派遣されたと言った時、今年もこの季節がやって来たのだと実感した。
毎年体調を崩すこの時期、そしてエリスの口から出た修道院時代の自分の話。明るい青春を送ることができなかった薄暗い記憶が蘇り、は弱々しく笑い返した。
「私は一週間ほどこちらに滞在するつもりなので、さんの体調が万全の時にもう一度訪問させていただきますね」
「分かりました。神父様に伝えておきましょうか」
「いえ、これから市長宅にも訪問する予定なので、その時私から伝えましょう」
「そうですか。ではお願いしますね」
「それから……」
黒い革の鞄からファイルを取り出しに差し出した。挟まれた紙には、毎年行われる祭りについての概要や、教会の予算などが細かく書かれている。
「祭りの際に売る商品のことなのですが、今年は花の収穫が例年より少なかったようです」
「そうでしたか……」
「やはり首都では空気が合わないのかもしれません。ここは温暖な地域で土も合っているんでしょうね」
残念です、とエリスはため息を吐いた。それに対しては何も言えなかった。
国花にもなっている白い花は街のあちこちにも咲いている。可愛らしい見た目の花であるのに、花らしい匂いがない。無臭の花に違和感どころか不気味さを感じたのはまだ幼い頃の話だ。
街中が白い花でいっぱいになるこの季節は憂鬱でしかない。綺麗だと皆に合わせて口ではそう言ってみるが、はあの花が好きではなかった。
首都での収穫は少ないと聞いてもちっとも安心できない。エリスの言う通り、この街では毎年異常なくらい咲き誇るのだ。だから残念だと言うエリスよりの方が内心もっと残念に思っていた。
「そ、そういえばエリスさん、私に訊きたいことがあるとおっしゃっていましたよね?」
「ああ、はい。でも……」
少し困ったようにエリスはじっとを見つめた。顔に何かついているだろうかと自分の顔に触れようとする。
しかし思わず怪我をした方の腕を動かしてしまった。ピリッとした痛みが走り、僅かには顔を歪ませた。それをエリスは見逃さなかった。
「さん、やはり今日は家に帰って休んだ方がいいですよ。話はそれからでも構いませんので」
「ですが参拝客の方がまだいますし……」
「私から神父様に伝えておきますから大丈夫ですよ。祭りまであと何日もないんですから、体調はしっかり戻しておかないと」
優しい口調は神父とよく似ている。こういう言われ方をすると否定も拒絶もできなくなってしまうので、素直に頷くことしかできなかった。
「では今日はこれで。ちゃんと休んで下さいね」
「はい、お心遣いありがとうございます」
見送りさえも断られてしまったのではまた手持無沙汰に腕を握りしめる。エリスが部屋を出て控室の扉が閉まると、よろよろと倒れこむように椅子に座った。
こんなに早く帰ったらクロロに邪推されてしまうのでは、とあれこれ考えてしまう。本当であれば神父やエリスに言うべきなのだろうが、どうしてかそれができなかった。
犯罪に手を染めているであろう人間を匿うシスターには、もう救い手などないのかもしれない。
「お帰り。早かったね」
家に着いたのは昼過ぎだったが、クロロは特に驚きもしなかった。
やはりまだいた。いなくなっても不安でしかないが、いたらいたで別の不安が残る。
を一瞥しただけでクロロは再びキッチンの方へ向き直ると、本を片手に料理に励んでいた。似合う似合わない以前に、あまりにも不思議すぎる光景には呆然と立ち尽くした。
「た、ただいま戻りました……」
「勝手に使わせてもらったけどいいよね」
よく見るとクロロが片手に持っていたのはキッチンに置いてあるレシピ本だった。家事から一番遠い人種でありそうなのに料理をするのかとまたしても驚く。
「食べる?」
「え?あ、はい」
普通に返事をしてしまった。断る選択肢が頭に浮かばなかった。
何故こんなに早く帰って来たのか言おうかと思っていたが、聞かれてもいないし興味もなさそうなので言わないでおく。そもそもクロロに居候という自覚はなさそうだ。
洗面所に行って手を洗い、再びリビングに戻るとテーブルには二人分の料理が向かい合わせに置かれていた。見慣れない光景にぼんやりしていると「座って」と言われて慌てて席に着いた。
「いただきます……」
「味は期待しないでほしいけど」
恐る恐る料理を口へ運ぶと、そんな謙遜がもったいないくらいにおいしかった。自分が作るよりおいしいかもしれない。
「おいしいですよ」
「毒入りだって言ったらどうする?」
その言葉でお互いに顔を見合わせる。真顔でそんなことを言われたので、の咀嚼がぴたりと止まった。
今までの出来事でクロロの本当の顔を知ってしまったが、何故このタイミングでそんなことをするのだろうか。こんなにおいしい料理に毒を混ぜるなんてもったいないとすら考えていた。
クロロとしては恐怖に怯えるの顔を期待していたのだが、当のはきょとんとした顔をしていた。少し何かを考えてからは再び咀嚼して料理を飲み込んだ。
「そうなんですか?」
「……何その反応」
「ご、ごめんなさい」
「いやそうじゃなくて」
普通は驚くなり怖がるなりするだろうに、なんだこの女、とクロロは呆れた。
毒は入っていないと主張するわけではないが、クロロもやっと自分の作った料理に手をつけた。悪くないとは思うが、自分で作ったものなのだから良いという評価もどうなのだろう。
「入ってないよ。何も入れてない。今更信じられないだろうけど」
第一、この家には毒物になりそうなものがない。洗剤や漂白剤の効果なんてたかが知れている。それにこれはクロロの勘でしかないが、は毒で死ぬとは思えなかった。
「信じますよ」
「どうして?」
「その……まともな味がします。おいしいですから」
「そりゃどうも……」
そんな理由でいいのか。意外にも自分より食の進みが早いを見てクロロは苦笑した。