まるでずっとここで暮らしていたかのように寛ぐクロロにも疑問を抱くが、今はの中で祭りの方が大きな懸念となっていた。
また訪問すると言ったエリスの言葉が何度も頭の中で繰り返される。初対面でも感じのよい女性ではあったが、もう訪ねて来ないでほしかった。
だからこそ自分が一度殺されそうになった男がこの場にいても、前ほど怖いと感じないのかもしれない。悪魔のような男かと思えば人並みに料理を振る舞う一面も持ち合わせている。
だが、こうして彼に背を向けて台所に立っていると、背後から殺されるのではないかという恐怖も拭えない。ただの皿洗いなのに、後ろにいると考えるだけでうっかり手を滑らせそうになる。
「そういえば怪我はどうした?」
心の中を見抜かれたようで心臓が飛び上がった。
つるっと手から皿が滑り落ちたが、それは溜めた水の中にぽちゃんと飛沫を上げて落ちただけだったのでなんとか無事だった。
恐る恐る後ろを向くと、クロロはの方ではなく本に夢中になっていた。しかし、返事がないのを不審がってついにこちらを向く。彼にそんな気はないのに蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。
「手当てくらいはしてやれるが」
「大丈夫です。自分でできますから」
「なら薬だけやる」
手招きをされて一旦洗い物を中断した。側まで寄るとどこから取り出したのか、クロロは小さな容器に入った塗り薬をに差し出した。
手のひらに置かれてその蓋を開けるとクリーム状の薬からふわりと甘い香りが広がった。まるでハンドクリームのようだ。
「初めて見ました。いい香りですね」
「この本に書かれてる国の物だよ」
ちょうど今読んでいた本をに見せた。表紙に見覚えがあるとは思っていたが、それは少し前にが書店で購入したものだった。写真ばかりに夢中になって文章自体を流し読みしていたので、そんな薬の存在は知らなかった。
「大体の怪我には効くはずだ」
「……ありがとうございます」
外国の薬は使ったことがない。怪我や病気をしたこと自体殆どないから、大抵は近くの薬局や病院のおかげで事なきを得る。
だけど自分には……と浮かない表情のにクロロは首を傾げた。先刻も言った通り、今のクロロにはを殺す必要がない。だからこれにも毒が入っているとは彼女も思っていないはずだ。
ぼんやりしているに「塗ってやろうか」と声をかけ、彼女の腕を取ろうとすると、手がかすかに触れた瞬間に凄まじい勢いで拒絶された。
呆気に取られたがそれも一瞬で、クロロはすぐに微笑を浮かべた。
「まぁいいけど。ところでこの本は自分で買ったのか?」
「そ、そうです。前に勧めたあの本屋で……」
クロロがこの街に到着した日、確かにその書店が会話に登場した。色々なことが起こりすぎて大昔の出来事のような気がしてきた。
不躾な態度を取ったことについては何も言われず、はほっと息を吐いた。かばった腕を握りしめると、怪我をした部分だけではなく全体が痛んだ。
「外国語の勉強でもしているのか」
クロロがそう言った理由は、その本のほとんどが外国語で書き記されたものだからだ。
宗教とは全く関係のなさそうな内容の本だが、城や遺跡といった歴史ある観光地のページはよく読み込まれた形跡がある。
「私は他の国へ行ったことがないので、写真だけでもと思ったんです」
「一度も?生まれは……ああ、知らないんだったか」
「はい」
そういえばそんなことを言っていたなと、が自分の生まれ故郷を知らないことを思い出した。
自分の出生を知りたがっているのかとも思ったが、からはそれを求めるような焦燥や憂慮は窺えない。ただ単に外の国へ思いを馳せているだけらしい。
だとすれば尚更変な女だと思う。この家の本棚には外国に関する本がジャンルを問わず様々揃っていた。まるでこの宗教色の強い国から出て行きたがっていると言っているようなものだ。
ふっと笑ってクロロは本に視線を落とした。
「この国、大体の場所の治安は最悪だ。観光地でも貴重品をすられるなんて当たり前だし、一歩路地裏に足を踏み入れると面倒な輩に絡まれる。素人はな」
「そ、そうだったんですか……」
「建造物は確かに素晴らしいが」
自ら渦中へ飛び込むことはあっても、盗賊の長ともあろうクロロがそんな間抜けな目に遭うはずがない。
この街へ来てからも、財布をすられたり薬物や暴力関係に巻き込まれるということはなかったが、ある意味で間抜けな失態を犯してしまった。目の前の女が元凶なのだが、思っていたよりずっと厄介だった。
……と、クロロが思っていることも露知らず、想像していた国とは違う現実を突きつけられたは本を凝視していた。
「旅行に行きたいのか?」
「え?」
「違うのか」
「もうすぐお祭りですし、そんな暇はありません」
それは関係ないだろうと思ったが、ここ数日の慌ただしさのせいで祭りのことをすっかり忘れていた。日中は外にも出ずにこの家に籠り切りなので尚更だ。
仲間は祭りの日までにここへ来られるだろうか。必要な情報を集めるようにと頼んだ仲間の一人からは、あれから未だに連絡はない。
「最近やけに外が騒がしいと思っていたけど、祭りまであと何日だっけ?」
「4日です」
「そうか。人混みに乗じてなら俺も動きやすくなる」
自分の目的を匂わせたクロロの言葉でようやくは彼がこの家に居座っていた理由を思い出した。
城での一件があったから単純に身を隠すためというのは違う。
機会が訪れるのをじっくり待っていたのだ。何を求めて何が狩られるのか、聞きだしたいとはもう思わなかった。
きっとクロロは目的のために罪を犯す。それがどんなに罪深いことであっても彼なら躊躇わないだろう。これまでにも罪を重ねてきたに違いない。クロロのことを殆ど知らないにも、その直感だけは鋭く働いた。
そのためには自分を囮にするとも言っていた。どういう風に利用するのかは分からないが、こんなことは自分の人生でもう二度と起こらないはずだ。
罪深いという意味では自分もクロロと何も変わらない。今まで気が付かなかったが、それこそが二人の共通点なのだ。だから同じものを持っている彼にしか頼めないと、そう確信した。
「クロロさん、この街での用事が済んだら……そのあとはどうするんですか?」
「それはつまり、自分の命はどうなるのか、という意味で訊いているんだよな?」
殺されかけたというのに肝心なことは何一つ漏らさないところはの美徳なのかもしれない。
あの夜も殺すつもりで問い詰めたのに、有益な情報は殆ど得られなかった。厄介なことこの上ないが今殺してもクロロにとって不利益にしかならない。質問すればいつもだんまりを決め込むから、今回もそうなるのかと思っていた。
しかし俯いてはいたものの、はこくりと頷いた。
聖職者でも流石に自分の命は惜しいのか、と思っていたのだが、の顔からはその想いは微塵にも感じ取れなかった。
「もし私を殺すのでしたら、どうか……どうか祭りが終わった後、跡形も残さないくらいに生きたまま火をかけて下さい」