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 不愉快な音が聞こえる。鈍く何かが擦れる音と、時々呻き声と冷静な声も聞こえる。
 音のせいで目が覚め、頭が徐々に覚醒すると自分が今薄暗い部屋の中にいるのだと分かった。どこかからか漏れる灯りは天井に微かに映し出されているが、その灯りはこの近くにはない。
 横たわっているここはベッドの上だろうか。つんと鼻につく薬品の臭い。ひんやりとした部屋の空気。がよく知る場所だ。
 ここへ立ち入ることができるのは教会関係者だけだ。教会の祭壇を挟んだ二つの部屋のうちの一つ。告解室の反対側にある地下へと続く階段を降りるとこの部屋へ辿り着く。
 どうして自分がこんなところにいるのかと思い、寝返りを打とうと手足を動かした。衣擦れの音は小さかったが、部屋の奥にいる男は耳聡かった。

「急に起き上がるなよ。頭を打ったんだ」

 奥には確かにクロロがいる。声のする方向に目線だけをやると、蝋燭の頼りない灯りの影がぼんやりと部屋の奥に浮かび上がった。
 頭を打った、と言われて意識を失う前のことを少しずつ思い出した。最近こういう目に遭ってばかりだ。その元凶のうちの一人でもあるクロロがそこにいるのに、怯えるどころか少しだけ安心してしまった自分がいた−−突然彼が何かに対して聞き返したりしなければ。
 何と問いかけたのかは聞こえなかったが、それは自分に対しての言葉でないことは確かだ。

「クロロさん、そこに誰かいるんですか?」

 その問いには答えず、数秒後にクロロは何かを呟いた。死ね、というな言葉が聞こえたような気がする。淡々とした物言いには氷のような冷たさが含まれているようだった。自分に向けられた言葉なのだと思ったは硬直してしまった。

「違う。お前じゃなくて……まぁいいや」

 空気でそれを感じ取ったクロロは苦笑したがそれ以上は言わなかった。
 コツコツと靴の音を響かせてクロロは燭台を探し回った。近くの棚からそれを見つけ、先ほど点けた蝋燭から灯りをもらう。そしてそれを持ってが横たわるベッド際まで移動した。
 ベッドが2台あり、その間の小汚い机の上にに燭台を置いた。それから錆びついた椅子をベッド際まで引きずってそこに落ち着いた。
 意外にもクロロは興味深そうに辺りを見渡すことはなかった。もう既に閲覧済みだったのかもしれない。

「教会の地下にこんなところがあるとは驚きだ」
「そうでしょうね……」
「気分は?」
「良くはないです」
「それは頭を打ったから?こんな陰気な場所にいるから?」
「両方……」

 心底気分が悪そうには目を閉じた。陰気な場所というのは否定しなかった。事実、ここはいつも血と薬品の臭いが漂う。今だって血の臭いが−−そこで気が付いた。自分のものではない、誰かの血の臭いがする。
 が目を開ける前に、何の前触れもなくクロロに左腕をがっしりと掴まれた。驚いて目を開けると、服の袖をめくろうとしていた。
 の小さな悲鳴は無視される。袖のボタンを無理矢理ぶちぶちと開け、今度はその下に覗いた包帯を手際よく破っていった。あっという間の出来事である。
 寝かせられたベッドの向きが良くなかった。頭を強打して起き上がれないのも運が悪い。もしくはクロロはこうするつもりでこの向きにを寝かせたのかもしれない。反対側には壁しかないのだ。
 ほどかれた長い包帯は床に落ちた。凝視されているのが分かり、掴まれた手から逃れようと試みたが、力で敵う相手ではない。
 まじまじと見たクロロに特に大きな反応はなかったが、素っ頓狂な質問が降ってきた。

「あいつ、看護師じゃなかったのか?」
「え?」
「教会にいた女。あれがこうしたんじゃないのか?」

 依然腕を掴まれたままだが、この状況に相応しくない空気に呆気に取られてしまった。
 左腕の内側は青黒く変色して採血をした痕がいくつも残っている。何度も行われたせいで大きな痣は絶えない。注射針ではなく刃物で切られた痕もある。失敗した痕が多いのは、それらが自傷によるものではなく誰かに傷つけられたものだからだ。
 もちろん資格を持っている相手に採血してもらうことの方が多かったのだが、いつもそうというわけではなかった。
 エリスがどちらの人間だったのかは分からないが、あんな風な恐ろしい看護師は見たことがなかった。いくら美人だと言っても纏う雰囲気が良くない。
 腕を掴んだまま、もう片方の手でクロロが痣に触れてきた。傷つける気はないようだったが、指先だけで触れてくる感覚に注射とはまた違う恐怖を覚えた。

「こことかこことか、下手くそな奴がやったらしい」
「それは……私が抵抗したから」
「へぇ、意外だな。それっていつ?」
「子どもの頃……」
「道理で他にも古い傷があると思った。これとか酷い出血だったろ?」

 医者の診察にも似た会話だがそこに患者への配慮はない。答える必要もなかったのだが、黙っているよりいい。無遠慮な質問が気を楽にしてくれた。

「どうして分かったんですか?」
「腕を押さえるのが癖なんだと思ってたけど、癖って言うより強迫観念に近いように見えたから」

 無意識のうちに腕を握る癖は自分でも気づかないうちに悪癖となっていた。鬱血するほど強く握ったこともある。不安な時や恐怖を感じた時、腕を締め付けると落ち着きを取り戻せた。
 触診にも似た何かはもう終わったと思っていると、の服の袖を更にたくし上げた。二の腕には先日ナイフで切られた大きな傷が残っている。
 面倒になったのか途中でびりびりと服を破く音が聞こた。息をのむ間もなく容赦もない。
 流石に怖くなって身を捩ろうとしたがやはり無意味に終わる。包帯には血が滲んでいたが、それさえも破り捨てられた。
 今まで全く素振りを見せなかったが、唐突に二の腕を握られ傷口を抉るような痛みが走った。液体がそこから腕を伝って流れていった。

「化膿してる」
「痛っ、やめて下さい!」
「毒を塗ったナイフで切られてこの程度で済んだんだ。だが運が良かったってわけじゃない」

 押し殺した声が苦痛に耐えきれずに時々漏れ出す。怪我を放置していたわけではなかったが、諸事情により誰かに腕を診てもらうわけにはいかなかった。
 抵抗するを押さえつけ、クロロは淡々と慣れた手つきで膿を絞り出した。痛みに耐えるためにもう片方の手でシーツを握りしめたが、採血の時とはまた違う痛みが拷問のように感じた。

「即効性だから普通はもっと早いうちに毒が回る。何日も普通に生活できるはずがない。解毒したわけでもなさそうだしな」
「うっ……!」
「毒に耐性があったとしても限界はある。耐性と言うより体質かな、これは」

 痛みで気絶できたら良かったが、耳から入ってくる情報がそうはさせまいとを引き留める。
 クロロが普通の人ではないということは分かり切っていた。頭の切れる恐ろしい人という認識は間違っていない。この先も変わるはずがない。
 この先なんてものがあるのか疑わしい。ここまで鋭い洞察力を持っている人を見るのは初めてだが、核心に迫れば危険が及ぶことは分かり切っていた。

「……あまり、触らないで」
「無理な話だ。腕が使い物にならなくなるぞ」
「そうではなくて、私の血は……」

 耳聡いクロロだから聞き取れるような、無理矢理出したか細い声だった。
 肩で息を吐く姿は瀕死に近いが、次の言葉を紡ぐ前に何かを感じ取って急にの体が震えだした。
 念を解かれてはまた施されて、というのを何年もの間、時間をかけてゆっくりと体に染み込こませるのは毒の耐性をつけるかのようだった。
 実際にそれは上手くいったとは言い難い。オーラを察知するだけで全身が凍るようだった。
 その毒の根源の一つとも言える存在が部屋の奥にいた。
 それは椅子に縛り付けられて顔を布で覆われ、あちこちから血が滲んでいる。元の姿の面影もないそれは、を引きずり戻そうとしているかのようなオーラを放っていた。

「そうか。じゃあ試してみるか」

 続きを引き出さなくとも、の言葉の中にすでに答えを見つけた。
 オーラを遮るものにはならないが、隣のベッドにあった毛布をの頭まですっぽりとかけた。すると震えは少しずつ小さくなっていった。
 それを確認したクロロは、親指ほどの大きさの小瓶を握りしめ、部屋の奥に佇む者の元へと向かった。今度は足音も衣擦れの音も一切立てずに。


(2018.03.24)