今まで犯した罪の数の中で、数えきれない細かなことを抜きにすると、大きな罪が2つある。ただ、自覚しているのが2つというだけで、他にもあるのかもしれない。
そのうちの一つの結末は未だに知らない。知らされていないし、誰に聞いても教えてくれなかった。それ自体が本当の答えを示している。
意識が遠くなって行く中、女の声が聞こえた。静かな地下室では些細な音でも耳に届く。布か何かで口を塞がれているのだろう、無理矢理抑えられた口から溢れる声は苦しそうだった。
女が苦悶する中、淡々とした男の声がやけにはっきりとの耳に届いた。
「俺の時はもうちょっと量があったかな。あれの3分の1でどれだけ持つか……」
まるで科学の実験をしているかのような調子だった。とりあえず試してみよう、という軽い響きだが、それ以上聞き取れなかったのは幸いだったかもしれない。
意識を失いそうになるが手放してはいけない。布に遮られた先にいる女が、忘れられない、忘れてはいけない誰かと重なった。
修道院へ入る前、女学校で過ごした日々は一日たりとも忘れたことはなかった。
入学した少女達は敬虔なシスターを目指すべく熱心に学んでいた。親に言われて、自分から進んで、学校の噂を聞いて、など理由は様々だ。
育った孤児院がその系列だったからという理由ではそこに入学した。シスター達は厳しかったが教えを聞くのは苦ではなかったのが幸いだった。
同級生に大人しく優しい少女がいた。と同じく彼女も孤児院で過ごし、隣の国から来たのだという。境遇が同じだっただけに二人はすぐに仲良くなり、学校にいる間、穏やかな時を過ごすことができた。
きちんと言いつけを守り成績も優秀で、シスター達の目から見ても二人は模範的な良い生徒だった。
どちらかが悩んだ時には良き相談相手になり、具合が悪い時には看病もした。寮でも一緒にいる時間が長いので、一人になった時のことを考えたことがないどころか、思いつきもしなかった。
「は将来どこの修道院へ行きたい?」
庭を掃除している間、国中の修道院について語り合っていた。箒の穂先が小気味よい音を立てて枯れ葉を掃いていく。
「行けるならどこでもいいけど、観光客が沢山来る修道院がいいな」
「そうなの?意外。賑やかなところはあんまり好きじゃないのかと思ってた」
「そんなことないよ。色んな国の人に会えるならそれがいいのかなって思ったから」
外への憧れは昔の方が強かったと思う。彼女は隣国から来たが、は一度も外の国へ出たことがない。こういう生活をしていると旅行という言葉さえ遠い存在のように感じるのだ。
この国から外の修道院に行く方が珍しいので、それならせめて多種多様な人と会えたらと思っていた。
そんなの話を聞いて彼女は目を細めた。
「私もと同じところに行きたいな」
それが叶えば、と心から思っていた。もしも別々のところへ行ってしまっても、たまに会える楽しみがある。
掃除もそろそろ終わりという頃、風が吹いて木々が揺れた。ごみ袋に落ち葉を入れていなければ徒労に終わるところだった。
再びがさがさと音が鳴った。袋の音ではなく、近くから聞こえる別の音だ。
その頃は緑が消えて、あとひと月もすれば雪が降るかどうかという季節だった。
庭の小さな薔薇のアーチはその季節は貧相になる。花も葉もついていないが、いばらだけはしっかりと残る薔薇の足元に、紙切れが風でがさがさと音を立てていた。蔓に引っかかっているようだ。
「あそこにある紙、拾ってくるね」
「いばらに気をつけて」
風が強くなってくる中、彼女は残りのごみを掃き、は蔓の方へ向かった。
揺れる蔓に触れないように気を付けてはいたが、なかなか取れない。手を無理矢理蔓の中に突っ込んだせいで、ちくりちくりと一つだけではない痛みを手に感じた。
取れた紙は結局ただのノートの切れ端だった。猫に引っかかれたようなの手を見て「だから言ったのに」と彼女は呆れたような、心配するようなため息を吐いた。
「大丈夫。そんなに痛くないよ」
「そう?でもばい菌が入ったら危ないから、このハンカチ使って。後で一応医務室に行きましょう」
包帯代わりにそれで手を押さえようとしたが、がハンカチを受け取る前に彼女がやってくれた。お互いの手は寒さで指が赤くなっていた。
彼女の指が触れて、指先で絵の具を伸ばしたような赤い痕がの手の甲に残った。
「ごめん、血が……」
「いいよこれくらい」
指先についたほんの少しのジャムを舐めるように、彼女はぺろりと血を口に含んだ。行儀が悪いとシスターに怒られそうな、年頃の少女らしい茶目っ気のある仕草はかえって魅力的だった。
彼女の白い肌が寒さでほんのり赤らんでいた。暗くなってきたし寒いし、そろそろ寮に戻ろうとが言い出す前のことだった。
血色の良かった彼女の顔は、みるみるうちにその色が失せ、喉や胸やを押さえて、それから−−
あの時の声と同じだ。同じ苦しみをクロロも味わったはずなのに、あの時の彼は声を上げずに静かに苦しんでいた。苦しみ方に違いはあっても、あの苦痛は分かるはず。
拘束されている女は確かに裏で糸を引いていたのかもしれない。クロロに危害を加えようとしていたのかもしれない。事実、も得体の知れない何かを仕掛けられそうにはなったが、見殺しにする理由としては今一つ弱い。育った環境と教育による価値観がそう思わせた。
は多くの人を危険に晒し、苦しませてきたことは恐らく事実だが、それでもシスターとして人生のほとんどを生きてきた。止める理由はそれで充分だった。
たったこれしきのことで償いきれないし、罰が下っても構わない。そう決心させてくれたのは、いつでも記憶の隅にいる彼女のおかげだったのだ。
「クロロさん」
果たしてこんな小さい声が届くのだろうか。しかしこれ以上大きな声が出ない。近くで喋るような声しか絞り出せず、もう一度声を張ろうかと考えた。
「何?」
こちらに背を向けたまま、暗がりの中でクロロは返事をした。そこには単なる疑問の感情以外何もなかった。実験を楽しむわけでも、それに水を差したを咎めるような苛立ちもない。
それはむしろ好都合だ。実験に気が向いてくれていて良かった。不謹慎極まりないが、クロロの興が乗っているこの時を逃すわけにはいかなかない。
「白い戸棚の左から3番目……それに茶色い箱の中の、紅茶缶の中のものを多めに溶かして飲ませてあげて下さい」
布の下から少しだけ顔を出し、念のため戸棚を指さした。指先がまだ震えている。
クロロはを一瞥すると、白い棚を確認した。ところどころ色が剥げている古い戸棚には、大小の瓶がびっしりと詰まっていた。中には液体が入っているらしく、しっかり栓で封じられている。
左から3番目、と指で選んで小瓶を取った。どこかで見たような、と思いながら言われた通り今度は茶色い箱を探した。
箱と言うからそこそこの大きさの物を想像したが、見つけることができたのは手のひらに収まるほどの小さな箱だった。
中には錆びた紅茶間が一つだけ入っていた。その中にあったのは茶葉でもティーバッグでもなく、ほんのり爽やかなの香りのする白い粉末だった。
「これは?」
「……やってみたら分かります」
どうにか頑張って冷静さを作ったような、気を張った声だった。
ほう、とクロロが感心したのは、初めての意思を感じ取れたような気がしたからだ。
腹をくくったのかどうかは知れない。形はどうであれ、今は目の前で起こる事象に協力する立場と捉えた。もちろんの本心はそうではないし、得られる利益もクロロとは違うものだが、この瞬間、初めてお互いの目的が一致したのだった。