良い夜は路地裏から



 深夜のミアレシティを歩くには常に気を張らないといけない。プリズムタワーは遠くで光っているけれど帰り道を照らしてくれるわけではない。石畳を照らす街灯は今の時間だと頼りなく感じる。
 先に帰って構わないと言われたのでようやく仕事から解放されたけれど、長居するお客様のせいでいつもより帰りが遅くなってしまった。いや、一番高いコースをご注文していただいたのだからお客様のせいにしてはいけない。むしろ喜ぶべきだ。それに明日は店はお休みだから遅くまで寝ていられる。それを考えたら少し帰りが遅くなったというのは些細なことだ。

 自然と早足になって家を目指そうとした。賑わっていた通りはもう通り過ぎてしまったので薄暗さが不思議と怖くなる。そして後ろから誰かの足音が聞こえてくることに気がついた。私と同じくらいの速さ……ではないけれど結構な早歩きな気がする。

 スリ、痴漢、誘拐――その他諸々の犯罪は夜に多く起こる。後ろから聞こえる足音がそれらでなければいい。そう思いつつも歩きながらモンスターボールに手をかける自分がいる。あれ、ボールの数がいつもと違うような……それより家にまだ着かないのか。次は職場近くに引っ越そうかな……でもあの近くの家賃は高すぎる。

さん」

 違うことを必死に考えていたら後ろから肩を掴まれた。びっくりしすぎて握っていたモンスターボールを落としてしまった。石畳に落ちたボールが音を立てた間も私は固まっていた。それを拾う人の姿を見てやっと体の力が抜けた。

「なんだズミさんか……」
「それはどういう意味ですか?」
「痴漢か何かかなぁと思って……す、すみません何でもないです」

 街灯の灯りの下でズミさんの三白眼がぎろりと鋭くなった気がした。少し息切れしているので急いで来たのだろうか。私が帰る時ズミさんはまだ店に残っていたはずだ。料理とバトルにおいて芸術性を重視する彼のことだから、今日も店で新作の料理のことでも考えていたのだろう。いつも冷静沈着なズミさんが息を切らしているのは珍しい。走るイメージが湧いてこない。

「どうしたんですかそんなに急いで」
「どうしたもこうしたも……貴方、自分のモンスターボールを一つ忘れたことに気がつかなかったんですか?」
「え、嘘!」

 ズミさんは自分のポケットからボールを取り出して私の掌に置いた。中にいるゴーゴートが悲しそうな目で私を見つめている。途端に自分の不甲斐なさのせいで申し訳なくなった。さっきボールに手をかけた時に感じた違和感はこれだったのだ。

「ゴーゴートごめんね……」
「トレーナーであるのにボールを落とすとは言語道断です。今後は気をつけて下さい」
「すみません……」

 早く帰りたくてその気持ちを優先させてしまったからボールを落としてしまったことにも気がつかなかったのだろう。ゴーゴートはきっと私に置いて行かれたと思ったに違いない。ズミさんの言うとおり信じられないいくらいひどいトレーナーだ。
 わざわざここまで届けに来てくれたのだろう。ズミさんにも申し訳ないことをしてしまった。その上痴漢と勘違いしたのだから失礼極まりない。

「ありがとうございました。まだ仕事中でしたよね?」
「いえ、帰り支度をしていた時にボールに気付いたので渡そうと思って追いかけてきました。こちらこそ今日は遅くまで残らせてしまって申し訳ない」
「ズミさん一人で残ってたんですか?」
「これ以上従業員に時間外労働させるわけにはいかないでしょう」

 四天王の一人なので店の誰よりも忙しいはずなのに人一倍努力をする。仕事が同じ日でもズミさんが私より先に帰ったのを見たことがない。見かけ以上にストイックだ。クールで淡々としているのに細かな気遣いができるのは見習いたい。
 再びズミさんの目がぎろりとしたような気がした。いつも鋭いけれど、彼の目が特に鋭くなるのは何か目的がある時だということに最近気がついた。

「送りましょう。家はどこの通りですか?」
「え、そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」
さん……貴方はボールを忘れるくらい急いでいましたよね。早足で帰ろうとしたのは夜道が怖いからでしょう。だから私が走る羽目になったんですよ。それに人を痴漢と間違えたのはどなたですか?」
「……すみませんでした」

 ズミさん、いつから後ろにいたんだろう。そんなに速く歩いたつもりはなかった。私としてはわざわざボールを届けてくれた上に送ってもらうのは忍びないけれど、この断りづらい空気は何だろう。ズミさんの特性はプレッシャーだと思う。最後の一言に恨めしさを感じた。
 お願いしますと言おうとした時、静かな通りにとても間抜けな音が鳴った。自分の顔がどんどん熱くなっていく。

「……はぁ」
「ため息はやめて下さい。仕方ないじゃないですか……」

 やれやれとでも言うようにズミさんは呆れた表情だ。空気を壊してしまった情けないお腹の音が恥ずかしい。いつかズミさんが今の私と同じ状況になったら沢山笑ってやろう……睨まれそうだ。
 今日は特に忙しくて休憩時間にご飯も食べられなかった。仕事中にお腹が鳴らなかっただけありがたい。案外お客様のテーブルに料理を運ぶ時は平常心を保っていられた。しかし気が抜けると忘れていた空腹が押し寄せてくるのだ。
 ズミさんは腕時計を見て時刻を確認して、それから再びぎろりと私を見た。心臓に悪い。

「疲れていなければ夕食でもいかがですか」
「で、でも申し訳ないですし……」
「私は一人でもどこかの店に入ります。急いで家に帰りたいのなら暗い夜道をお一人でどうぞ」
「……ズミさんってたまに意地の悪いこと言いますよね」

 家まではまだ少し歩かなければいけない。夜道は不安でも一人で帰ることはできる。でもお腹が空いている時にこの誘惑はずるい。それに一流シェフのズミさんならミアレシティ中の美味しいお店を知らないはずがない。この時間だと夕食と言うより飲みに行くようなものだ。

「美味しい所に連れて行って下さいね」
「私の店に勝る店は心当たりがありませんが、私の独断と偏見で良ければ」
「お願いします」

 明日はせっかくの休みなのに私に付き合ってもらってもいいのだろうか。そう言ってもきっと「問題ありません」とか言うのだろう。シェフと四天王を両立できる人だから何もかも完璧にこなしてしまう。ちょっとずるい気もする。ずるいところだらけだ。
 行きますよと言ったズミさんは微笑んでいた。初めてああいうプライベートな顔を見た気がするのでうっかりおいて行かれるところだった。さっきの表情が頭から離れなくて、前を歩く後ろ姿さえも格好良く見えて少しどきっとした。