ほとりの逢瀬



 今にも雨が降りそうだ。下宿先のアイリスに買い物を頼まれた帰り、成歩堂は空を見上げた。降り始める前に帰ろうと自然と足速になる。
 今日の夕飯は何だろう。馬車が走る音を聞き、お腹が空いたなぁと考えながら歩いていると、前方から女性が歩いてくるのが見えた。
 きょろきょろと辺りを見渡しながら人にぶつからないように器用に歩いている。
 どうしたんだろう。成歩堂はぼんやりと女性を見ていた。見つめているつもりはなかったが、視線を感じたのか女性の色素の薄い目が成歩堂をとらえた。
 気まずくなって目を伏せようとするより先に女性が声をかけてきた。うっかり手に持っていた袋を落っことしそうになった。

「すみません。少しよろしいですか?」
「は、はいっ!」
「オールドベイリーまではどう行けばいいのでしょう」

 つい大きな声で返事をしてしまった。それを意に介さない女性のゆったりとした英語が耳に馴染む。
 英国だろうが大日本帝国だろうが、淑女の服飾についての知識は皆無である成歩堂だが、この女性はきっと上流と言われる身分なのだろうと察した。
 よそ行きであろう大きな帽子が影を作っている。その中に女性の明るい目が輝いていて、またぼんやりと見入ってしまったが、唐突に我に返った。

「この通りをしばらく真っ直ぐ行ったところにありますけど、ここからだと少し歩くと思いますよ」
「あら、私ったら間違ったところで降りてしまったのね」

 間違えたことを楽しんでいるようだった。
 なんと言うべきか成歩堂には見当もつかないのだが、見た目こそ英国淑女そのものであるのに、少し会話をしただけでも初めてロンドンを訪れた世間知らずの娘のような印象を受けた。
 お節介かと思いつつも成歩堂は浮かんだ言葉を口にした。

「良かったらそこまで送りましょうか?」
「まぁ、ありがとうございます。お願いしてもいいかしら」

 嬉しそうに微笑まれてたじろいでしまった。自分のような異邦人は女性にとっては警戒の対象だと思っていたので、てっきり断られるかと思ったのだ。
 逆に迷惑になっていないかと恐る恐る女性を見ると、彼女は機嫌よく歩いていた。ロンドンはいつも曇っているし今日もそんな空だが、彼女は晴れやかな面持ちだ。

「ごめんなさいね。お買い物の途中だったのでしょう?」
「いえ、終わって帰るところだったので大丈夫ですよ」
「そうでしたか。ロンドンには慣れました?」
「そうですね。親切にしてくれる方もいて、なんとか頑張れてます」

 冷たい目を向けられることの方が多かったが、下宿先の人たちをはじめ、悪いことばかりではなかった。
 やはり自分のような日本人はこの国では珍しいのだろう。一目で留学生と理解してくれるのはありがたい。裁判の度に白い目で見られることもあったので、普通の日本人として接してくれるのが嬉しかった。

「今日はなんだか雨が降りそうですね」
「でも雨が降る日はそんなに多くないのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。どんよりしてるから今にも降りそうに見えますけど」

 天気の話はどの国でもされるものだなと苦笑する。だが不思議とその雑談で味わうような義務感は感じなかった。
 真っ直ぐ歩くだけで景色も変わり映えしなかったが、女性は楽しそうに周囲を見渡して歩いた。「どこまでも歩いて行けそう」と言った通り、歩きにくそうな靴でもその足取りは軽やかだ。
 オールドベイリーが見えるところまでやって来て成歩堂は息を吐いた。何故だかわからないが、女性よりも安堵していたのは間違いない。

「無事に着いて良かった。本当にありがとうございました」
「どういたしまして。帰りは……」
「従者を待つので大丈夫です」

 英国の事情についてそこまで詳しくない成歩堂だが、短い会話の中から女性の身分を想像した。
 見たところこの女性は一人だ。周りに従者らしい人物はいないし、歩いた時もそれらしい人は近くにいなかった。普段従者をつけている女性が今は一人きり、という状況は果たして……
 幸いここは人通りが多いし陽が傾く時間帯でもない。女性一人でも大丈夫だとは思うが、どうしてか彼女の笑顔を見ているとそわそわするのだ。

「どうもありがとう。また会えるといいですね」
「い、いえ、こちらこそ」
「良い一日を。ミスター・ナルホドー」

 裁判所へと消えて行った女性の後ろ姿が見えなくなると、はっと現実に戻った気分になった。

「……ぼく、名乗ったっけ」






 今日は楽しい一日だった。髪を梳く楽しそうな自分の姿が鏡に映っている。
 久しぶりの外出、久しぶりのロンドン。何より幸運とも言うべき偶然の出会い。
 日本人弁護士の噂に聞いたのは何か月も前のことだが、一度話してみたいと思っていたのだ。
 謙虚で親切な人だった。日本人は皆あんな感じなのだろうか。一度ティータイムに招いてみてはどうだろう――



 後ろから唐突に低い声がして振り返った。
 暗がりに背の高い男が立っている。鏡に映ってもおかしくないはずなのに、それが見えなかったのが不思議だ。
 久しぶりに見る顔。一日の終わりに春が訪れたような心地になった。

「お帰りなさい。今週はお帰りにならないと思ってました」
「着替えを取りに来た。少し休んで朝までには戻る」
「お疲れ様です」

 そう言うといつの間にかバロックが近くに来ていた。どちらかともなく抱擁を交わすと、ふわりと好きな香りが鼻孔をくすぐった。
 バロック本人の香りも感じ取れるが、今日歩いたロンドンの街の匂いがする。煙たくて濁っていて嫌いだという人もいるが、はあの街が好きだった。あそこで暮らしていたら考えも変わるだろうか。
 バロックがこの家に帰って来たのは2週間も前だった。久しぶりに会えた喜びで胸がいっぱいになっていると、上から静かな低い声が降って来た。

「今日はどこで何をしていた?」

 落ち着いているが、こちらをねちねちと責めるような強さを滲ませていた。ちらりと顔を盗み見ると、暗がりのせいもあって更に険しい顔をしているように見えた。
 これを言うだけのためにわざわざ帰宅したとしたら、それは流石に申し訳ない。何せロンドンからこの屋敷まで馬車で一時間以上はかかる。
 着替えなんて執事に言えば持ってきてもらるはずなのに――けれどもの顔には申し訳なさよりも喜色が色濃く出てしまった。

「今日も楽しく一日を過ごせましたよ」
「私はどこで、と聞いたのだが」
「外には出ましたね」
「裁判所で君の姿を見たという者がいたらしいが?」
「あらそうなの?」
「一人で街を歩いていたようだな」
「一人じゃないわ」

 途中までは、と心の中で呟く。助けてもらった人については言わないことにした。
 帰りに従者になんとか連絡を取って裁判所まで迎えに来てもらったが、一人でいる時間の方が短かった。伝えていない事実があるのは確かだが嘘は言っていない。
 バロックがやきもきしているのが伝わってくる。肩を抱く手に力が込められた。

「かわいそうに。君につけていた従者が半泣きで私に報告してきた」
「どうして」
「人混みの中で君を見失ってあちこちを走り回ったらしい」

 それを聞いて心が痛んだ。確かに彼には悪いことをした。
 わざとはぐれたわけではないのだが、好奇心が勝ってしまい言いつけを守らなかった。「はぐれたらその場から動かないこと」という子どもと交わすような言いつけが好きではないというのは、今は関係ない。

「責めていませんよね?」
「どうかな」
「悪いのは私なんですから怒らないであげて」

 縋るようにバロックの胸に頬を寄せた。
 事実を聞き出そうと遠回しで嫌味な言い方はしても、頭ごなしに怒ることはしないしこちらを理解しようという歩み寄りを見せてくれる。
 見た目が怖いので侍従やメイドも恐れているが、その人となりを知ればバロックが誠実で優しい人だと理解できるはずだ。
 だから今日はぐれた従者に対しても、きっとそこまできつく叱ったりはしていないはず――最も、バロックはそう思っていたとしても従者がどう受け取っているかはまた別の問題なのだが。

「勝手に出かけてごめんなさい」
「……出かけるのは構わないが、一人で歩かないでくれ」
「はい」

 肩を掴んでいた力が抜けた。そのまま抱きすくめられると、小さな安堵のため息が聞こえた。
 本当に申し訳ないと思っているのは確かだが、心配してくれるのが嬉しくてつい甘えてしまう。
 いつもの抱擁より長い時間そうしていた気がした。そういえばキスをしていなかったことを思い出す。体を離そうとしたが、バロックの手に再び力が込められ、それは叶わなかった。

「それでは次に、わざわざ私が忌み嫌う人間に付き添われていたのはどういう事情なのか説明してもらおうか」
「……小出しにしないで一度に言ったらどうです?」
「無理な相談だ。職業病なのでな」
「ここは法廷ではなく自宅でしょう」

 問い詰める様は法廷での姿そのものだ。被告人はこんな気持ちになるのかしら、と思ったがこれとは比べ物にならないくらい絶望的な気持ちなのは間違いない。
 やましいことなど何もないので、努めて冷静に尋問を受けることにした。

「はぐれて一人になった後に偶然出会っただけですよ」
「ほう、そんな偶然があるのか」
「道に迷っていたから、オールドベイリーまで道案内をしていただいたの」

 元々裁判所に行こうとしていたのだ。あの日本人弁護士に会わなかったとしても、通行人の誰かには声をかけていたと思う。
 予想通りというべきか、バロックの表情はどんどん険しくなっていった。

「裁判所には来るなと何度も言っただろう」
「声をかけるつもりはありませんでしたよ。貴方以外の検事殿が裁判をしていればそちらを傍聴しようかと」
「前から不思議に思っていたが、何故君はいつも血生臭い事件を聞きたがるのだ?」
「私も前から思ってましたけど、貴方はいつまで私を子ども扱いするつもり?」

 売り言葉に買い言葉。これに関してはの主張が正しい――少なくとも本人はそう思っている。
 子ども時代を知られているというのはこういう時に不便だ。バロックの目には幼い少女のままの姿が映っているのではないかと思う時がある。
 だからと言って喧嘩をしたいわけではない。腕しか動かせないので、なだめるようにバロックの背中を撫でた。

「ねえ、せっかく帰ってきたんだから少しは休みましょうよ」
「話を逸らすな。私が言ったことを忘れたのか?大体……」
「一人で歩いたことは申し訳ないと思ってますし反省してます。でも日本人と喋るなとは一度も言われてませんよ」

 裁判所に来ることが問題なのではなく、バロックの質問の本質はそこにあるのだろう。彼が日本人を嫌悪しているのは知っているが、それをにも押し付けるのはお門違いだろう。
 「では今からそれを施行する」と言われても困るので、何か言おうと口を開いたバロックを止めた。

「久しぶりに一緒に過ごせるのだし、寝るまででいいからお説教じゃなくて貴方のお話を聞かせて」
「何度も言うが君を楽しませるような話はない」
「別に血生臭いことだけではないでしょう」
「私の身の回りの話など女性に聞かせるようなものではない。ましてや自分の妻になど……」
「あら、何か私に対して後ろめたいことでもあるのかしら」

 眉を顰めたバロックの瞳に一体どう映ったのだろう。自分でもどういう表情をしたのかわからない。もう舌足らずな幼い少女ではないことをわかってほしかった。
 片方の手がの長い髪を掬い上げ、そのまま耳にかけた。髪から耳へと手が滑っていく。大きな手が陶器に触れるかのような繊細さで頬に添えられた。

「意地の悪いことを言うな」
「お互い様ですよ」

 優しい手つきで顔を寄せられて口づけをした。目を閉じる前に見えた憂いの表情がの胸を強く打った。
 この憂愁がいつか晴れ、子どもの頃に見たあの柔らかさが戻る日は来るのだろうか。
 もしかして、と一つの予感が頭に浮かぶ。それを見たいがために自分は無意識のうちに幼く振る舞っていて、バロックにもそう見えてしまっているのでは――
 それはそれでと思っている自分と、改めなければと思う自分がいる。そのことについては朝になってから考えようと思い、体の力を抜いて身を委ねた。