恋は盲目と言うけれど、身近にその状態の人がいると見ていて恥ずかしい。へらへらとした頼りない笑顔に鳥肌が立ちそうなくらい目立つピンクのセーター。そんな男の惚気話を小一時間ほど聞いているとだんだん疲れてくるのだ。これが女友達だったらまだ我慢できたかもしれない……いや、そんな自信もない。
 もういいや、と思って課題を始めたのに成歩堂は気にかけていないようだ。一文ごとに「ちいちゃん」と言うのでそれが呪文のように聞こえてくる。どうして耳は塞ぐことができないんだろう。目のように好きな時に閉じることができたら、今の状況で絶対耳を塞ぐのに。

「ちいちゃんって最高だよね!」
「うーん……」
「何で考え込むんだよ」
「え?ああ、ごめん。課題難しくて」

 ゼミの課題が終わらないのに成歩堂の話を聞いてあげる私って優しいな、なんて思ってしまうあたり私は嫌な奴だ。途中で聞くことを止めてしまったけれど、同じ話を3度も繰り返し聞いているとそう思うようになってしまうのだ。

「ぼくの話ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。ちいちゃんと映画行ったんだっけ」
「違うよ。水族館だよ」
「あー、惜しい」
「全然惜しくないよ」
「似てるじゃん。暗いところが」

 いや、やっぱり似てないかと思ったけれど言い直さなかった。彼らがどこへ行こうが、楽しそうで何より、とだけ思う。
 へらへら顔の成歩堂は嫌なので課題から目を逸らさないようにした。幸せそうだからとか、惚気話が嫌だからとか、そういうわけじゃない。幸せそうじゃなくともあの顔はムカつく。
 
「全然聞いてないじゃないか」
「最初は聞いてたよ。だけどデートまでの過程の話が長すぎるし同じことばっかり言うんだもん」
「そうだった?」
「そうだよ」

 やっと課題を半分ほど進めることができたので背伸びをする。課題と成歩堂の恋バナが一気に押し寄せてくるものだから疲れも二倍になった。いつも例の「ちいちゃん」にべったりなのだから彼女のところへ行けばいいのにと思ったけれど、あいにく彼女は授業があるそうだ。私では暇つぶしの相手にもならないと思う。
 女の子が話す恋バナを聞く分には構わない。かと言って男が恋バナをしたから気持ち悪いとは思わない。それなら何故こんなにイライラするんだろう。

「はぁ……ちょっと休憩」
「終わりそう?」
「終わらせないといけないの。明日提出なんだから」
「もう少し前からやっておけばよかったのに」

 成歩堂の言う通り、もっと早めに課題をやっておけばよかった。そうすればこの時間を課題に費やすことなく家に帰れたかもしれない。成歩堂の惚気話を3度も聞かずに済んだかもしれない。「うるさいなぁ」と思わず出た言葉は自分でも驚くくらい不機嫌なものだった。
 こういう何気ない会話の時の成歩堂の顔は普通だ。こっちの方がずっといい。もしかすると見慣れた顔が崩れたのが嫌だったのかもしれない。イライラしてしまったのもそれが原因なのだろうか。
 さっきまでちいちゃんのことばかり話していたのに、私の機嫌の悪さを感じたのか急に成歩堂は静かになってしまった。目線を向けると少し沈んでいたので、ほんの少しだけ申し訳なくなった。

「成歩堂ってさ、ちいちゃんの前でもそんな感じなの?」

 少しだけ話題を変えてみる。今日に限らずちいちゃんの話はもう嫌と言うほど聞いたけれど、成歩堂が元気になりそうな話題と言えばこれしかない。そして案の定、気を持ち直したようだ。
 ちいちゃん、という響きは可愛い。だけど正直、私がちいちゃんと呼ぶのは抵抗がある。遠目から成歩堂と一緒に歩いている彼女を見かけたことはあったけれど、直接話したこともないし会ったこともない。すごく可愛い子だったから、成歩堂が溺愛するのも分かるような気もする。だからと言って彼女以外の前であの表情をするのはやめてほしい。

「そんな感じって?」
「アホみたいにニコニコデレデレして、ちいちゃんちいちゃんって連呼してるの?」
……君結構ひどいこと言うね……」
「別に馬鹿にしてるつもりはないよ。いつも成歩堂の表情って同じなのかなぁと思って」

 成歩堂は困ったように笑ったけれど、すぐにデレデレした顔に戻った。褒められているとでも思っているのなら全力で否定したいところだ。
 ちいちゃんと付き合う前の成歩堂はこんな顔をしなかった。一途なところは変わらないけれど、もう少しまともだったと思う。もう少し友達らしい会話だってできていた。恋は盲目って本当なんだなと改めて実感する。

「うん、確かにちいちゃんの前と友達の前では違うかもね」
「それなら今はそのデレデレした顔引っ込めてくれない?見てられないんだけど」
「わざとじゃないよ!だってちいちゃんの話をする時は自然と嬉しくなっちゃうんだ」

 満面の笑みを浮かべた成歩堂は幸せオーラで眩しい。人のデレデレした顔ってこんなにムカつくものだっけ……というかあれって嬉しい時の顔だったのか。鏡を見せてやりたいけれど「ぼくって幸せそうだな!」と言いそうだから怖い。
 成歩堂はちいちゃんで頭がいっぱいだし課題は終わらないしイライラは収まらない。だけどもう当たりたくない。ムカつくのはムカつくけれど、ほんの少しちいちゃんが羨ましい気もする。ほんの少しだけ。

「そこまで想ってもらえるなら、ちいちゃんは幸せだね」
「本当?本当にそう思う!?」
「うん」
「照れるなぁ。ありがとう!君もそういう人に出会えるといいね!」
「おまけみたいに言わないでよ」
「その時はぼくが話を聞いてあげるよ」
「そりゃどうもありがとう」

 成歩堂はこういう人だ。いくら惚気話をしようが嫌味は言わないし、誰かが困った時は助けてくれる。清々しいくらいの笑顔に私までため息付きの笑みがこぼれた。
 だからと言って成歩堂のちいちゃん話をこれ以上聞きたいわけではない。疲れたのとイライラしたのとでお腹が空いた。よく見るとノートに書き続けた文章が後半にいくに連れて字が汚くなっていた。後で書き直さないとなぁ、とがっかりしてしまう。

「駄目だ……お腹空いた。私食堂行く」
「課題は?」
「残り半分だし後でやるよ」

 課題のために頭をフルに使って疲れたけれど、ご飯に行くと決めたらさっきより穏やかな気分になれた。イライラしてたのは空腹のせいであって成歩堂のせいではないと思う、多分。何か食べて満たされれば大分マシになるはずだ。

「ぼくも行っていい?」
「ちいちゃんはどうすんの」
「今日は授業の後に用事があるから帰るって」

 彼女って結構忙しいんだよね、と成歩堂がへらりと笑った。彼女がいるのに他の女とご飯を食べていいのだろうか。でも食堂に行けば他の友達もいるかもしれないから、そうなったら皆で食べることになるからいいのかな……でもそれは他の友達がいたら、の話だ。成歩堂にとって大学構内でのそういうことは関係ないのだろうか。

「あのさ、彼女いるんだから私といない方がいいんじゃないの?」
「なんで?友達なんだから別にいいじゃないか」

 そういう問題じゃない。やっぱり大学構内なら数に含めないつもりなのか。きっと幸せすぎてそういうことにまで考えが回らないのかもしれない。
 成歩堂が話すちいちゃんの話はもうどうでもいいけれど、ちいちゃん本人がどうでもいいわけではない。会ったことはないけれど流石に気を遣うし、彼女からしても自分の彼氏が私みたいな女と一緒にいるのは嫌だと思う。
 最悪の状況は回避したい。頭の中がお花畑状態になっている成歩堂を説得するより誰かを呼んだ方が早い。ノートや資料を片付けた後、他の友達を呼ぼうとこっそりメールを打った。

「次からはちいちゃんとご飯食べてね」
「え?いつもそうしてるよ」
「……まぁいいけど」

 普通の友達として普通に話している時が一番楽しい。いつもこうならいいのになと思ってしまうあたり、私はちいちゃんに嫉妬しているのだろうか。それでもいつか成歩堂のあの情けないへらへら顔にも慣れてしまうのかもしれない。慣れたくはないから、今度からあの情けない顔を見ないようにしよう。
 「行こうよ」と言って成歩堂は席を立った。今まで座っていて机に隠れていたから分かりづらかったけれど、ピンクのセーターに書かれた文字を見て自分の顔が引きつるのを感じた。本人が嬉しそうだからいい……のかな。

「ついでにもう一つ言いたいんだけど」
「何?」
「そのセーターはないわ……」

 笑いたくなったが頑張って堪えた。けれども多分表情に出てしまったのだろう。「ちいちゃんがくれた服を馬鹿にするなよ!」と怒られてしまった。思わず吹き出してしまったけれど、もう何も言うまい。