夜も更けた頃、月明かりに照らされた薄暗い廊下を一人で歩いても不思議と怖くはなかった。恐怖よりも自分を駆り立てる別の感情の方が大きいからだろうか。
ほとんどの刀剣達は明日も出陣したり遠征に行ったりするため、この時間は誰も起きていない。いつも賑やかな本丸は、夜になると誰もいないのではないかと思うほど静かだ。その静寂を守るため、なるべく足音を立てないように階段を降りた。
ここに来てからというもの、想像していたよりも一人になれる時間がなかった。風呂やトイレの時間は確かに一人になれるけれど、時間を忘れてぼんやり過ごすなんてことはできない。決して悪いことではないけれど、部屋にいても誰かしら訪ねてくる。一人になれるのは必然的に夜の限られたこの時間だけなのだ。
誰かにずっと関わっていると精神的に辛くなってしまう。しかも上に立って命じる立場になった今では、こうしておけば良かったと後悔することばかり増えていく。要領が良いとは言えない私には荷が重すぎる。かと言って逃げ出すわけにもいかないから余計に苦しくなるのだ。
◇
夜中に馬小屋に来る物好きはいないだろう。小屋の裏側はちょうど本丸からは死角になっている。何度か訪れたこの場所は寛げるような所ではないけれど妙に落ち着く。地面に座って空を見上げると、月と星が美しく輝いていた。
今度気分転換にでも場所を変えて蔵に行ってみようか。夜中に刀装を探しに来る刀剣男士はいないだろうし、あっちの方が馬の臭いはしないだろうし……馬は好きだけれど、せっかく風呂に入った後で石鹸の臭いを消したくない。
ほっとした瞬間、目が熱くなってぼろぼろ涙が零れた。嗚咽を漏らしたって構わない場所にいるのに、つい抑えてしまう。ハンカチか何か持って来れば良かったと後悔した。手の甲で頬を伝う涙を拭ってもしばらく止まりそうにない。
自分の鼻を啜る音しか聞こえなかったはずが、遠くからざりざりと砂利を踏む音が聞こえてくる。こんな夜中にこんな場所を訪れる酔狂な奴がいるなんて信じられない。そんなのは私だけで充分だ。こんな顔じゃ誰にも会いたくない。咄嗟に膝に顔を埋めたけれど足音は近づいてきて、ついに私のすぐ傍にまで来てしまった。
「おや主。奇遇だな」
片目だけで見てみると、三日月が小屋の角から顔を覗かせていた。奇遇、で済むような時間帯ではないと思う。
「夜中の散歩の途中でな」
そう言って三日月は私の隣に腰を下ろした。散歩の途中なら早くどこかに行って欲しい。けれども涙声になってしまうのが嫌で何も言えなかった。
顔を見られたくないけれど、あまり下を向いていても不自然だから半分だけ膝に顔を埋めた。どうせこの暗がりだとほとんど見えないだろう。でも月明かりで涙の痕が光ってしまうのは避けたい。
こんな時間に誰かと会うのは初めてだ。いつも一人でうろうろしているのだろうか。涙声にならないように、何度か咳払いして声の調子を整えてから訊ねてみた。
「いつもこの時間に散歩してるの?」
「ああそうだ。次の日に何もない時はな。主はいつもここに来ているのか?」
「……ううん。今日はなんとなく来てみた」
いつもこんな時間に馬小屋に来て一人で過ごしているなんて言いたくなかった。夜中に一人でこんな場所に来てぐすぐす泣いてる主なんて格好悪いし恥ずかしい。納得しているのかどうか分からない三日月は「そうか」と一言。
せっかくの一人の時間は終わってしまった。やっぱり次からは場所を変えよう。誰もいない方が落ち着くし、今の私はお世辞にも愛想がいいとは言えない。暗黙の了解と言うべきか、放っておいて欲しい、という雰囲気は三日月には効かないようだ。私のことなどお構いなしに彼は言葉を続けていく。
「夜は静かだな」
「そりゃ夜だからね」
「静かな夜は眠れないか?」
声が裏返りそうになったのでまた何も言い返せなかった。無言を肯定と捉えられた方が今は都合がいいかもしれない。居たたまれなくなって再び膝に顔を埋めた。
ぴったり横にくっつくわけでもない、離れた場所に座っているわけでもない、私達の間にもう一人座れそうなこの微妙な距離がありがたい。でも本当は誰もいない方がいい。それでも拒絶できないのが不思議だ。
顔も見られたくないし事情も訊かれたくない。だからここに居られること自体、私にとっては迷惑なのだ。何も言わないし何処かへ行こうともしない三日月にだんだん苛立ちを覚えて、変な声だということを忘れて吐き出してしまった。
「主のこういう状況を見て、消えてあげようとは思わないの?」
「ん、何故だ?」
「何故って……」
簡単に質問を投げかけてきやがる。それに上手く返せない自分にも腹が立った。またぐすっと鼻を啜るとやけに音が大きく聞こえた。
誰かに泣く姿を見られることが嫌だ。弱っている姿自体見られたくない。だから何処かへ行ってくれと言ってしまったら、自分がそういう状態だと認めているのと同じだ。こういう無駄な自尊心は要らないんじゃないかとたまに思うけれど、やっぱり反発してしまう。嫌な女だ。
「……貴方からすれば20年くらいしか生きていない私は子どもに見えるでしょ?」
「それでは主は千年ほど前に生まれた俺がじじいに見えるか?」
「質問に質問で返さないでよ」
「はっはっは、すまんな」
三日月はいつものように愉快そうに笑う。馬鹿にしているわけではないから怒るに怒れない。一方的にいらいらしているのは私だけだ。
陰に隠れて泣くなんて子どもっぽい。めそめそして情けない。それでも泣きたい時だってあるし一人になりたい時もある。どうして放っておいてくれないんだろう。慰めることも放置することもしないから私もきつく言えなくなる。
少し涙はおさまった。けれども泣いていたことは三日月だってなんとなく分かっているはずだ。必死に私が隠したところで誤魔化せることでもない。涙声と鼻を啜る音が何よりの証拠だ。
「主は俺に子ども扱いされたいのか?」
「違う。絶対嫌」
「だろうな。だから俺も主のことは子どもだと思わん。というか考えたこともない」
思わず顔を上げて三日月を見た。小屋の壁に背を預けて月を眺めるその姿に思わず見とれてしまう。
本当に?と口に出してしまったことに数秒経ってから気が付いた。疑っているからそんな言葉が出たわけではない。自然と同意を求めるような口調になってしまったのだ。
「ああ、俺にとっては立派な主だ。少々気が強いような気もするが」
余計なお世話だ。気が強いのは虚勢を張ってしまうからであって、自分に自信があるからというわけではない。三日月はそれを見透かしているのだろうか。
いつの間にか零れてしまった涙を慌てて拭う。涙なんだか鼻水なんだか分からないけれども服の袖はじっとり濡れてしまった。顔はきっと酷いことになっているはずだ。
三日月は一度も私を見ようとしなかった。ただ月を眺めて微笑んでいるだけ。敢えて私を見ようとしないのかもしれないけれど、その方がありがたい。なんとなく三日月の横顔をしばらく見つめていたくなった。
「……私も、三日月のことはじじいだなんて思ったことないよ。ちょっとのんびりし過ぎだからたまに急かしたくなるけど」
「そうか。急かしたところでそういう性質はなかなか変わらんだろうな」
「変える気もないくせに」
「はっはっは、その通りだ」
つられて私も笑ってしまう。泣いているのに笑っているなんて変な感覚だ。せかせかした三日月なんて見たくもない。というか、想像もできない。
私の性質だって簡単に変わりそうにない。変えようと思っても今まで変わったことがないどころか、前より酷くなった。それでも受け入れてくれるのなら、私も喜んで飛び込みたい。……少しくらいは直したいところだけれど。
「今宵の月は一段と綺麗だなぁ、主よ」
「……そうだね。綺麗」
私の涙が完全に止まった頃、ようやく三日月は私を見た。同意を求める口調はさっきの私と同じように聞こえた。
月が綺麗なのはいつものことなのに変なことを言う。三日月に「ありがとう」と一言、唐突に言ったら彼も私を変だと思って笑うだろうか。