代わり映えしない空と砂漠。アカデミーの窓から見える景色はそれくらいだ。
一人でいる時くらいぼんやりして眺めていたい。でもやっぱり、今日の砂隠れの空も鳥が飛んでいないのでつまらなかった。
大空を飛ぶタカ丸を見かけることは滅多にない。タカ丸が砂隠れから飛び立つ時は緊急を要するから、それ以外で空を飛んでいるなんて訓練中の時くらいだろう。
ごろんと仰向けになると、空が窓の形に切り取られたように見えた。口寄せの契約を結ぶなら大きな鳥がいいなぁと、雲しか見えない空を見ていつも思う。
風の国はほぼ砂漠しかないから景色はつまらないかもしれないけれど、背中に乗って飛んで一面に広がる砂漠を見下ろしてみたい。きっとどこか遠くへ行ってしまいたくなると思う。
雲よりずっと高く飛べる鳥なら雲隠れの里の上空を飛べるかもしれない。緑豊かな火の国はきっと景色が綺麗だろうし、鳥に乗れば3日もかからないかも……
「ひっ!」
目を閉じて頭の中でそんな妄想を広げていると、妙にピリピリした空気を感じた。
目を開けて思わず悲鳴が漏れてしまった。忍らしい抜き足で彼はいつの間にかそこにいて、冷たい目で私を見下ろしている。その顔は無表情で冷徹さしか感じ取れない。
「邪魔だ」
「ご……ごめん」
誰もいないのをいいことに、私は狭い廊下に寝転んで脚を伸ばしていた。ここは滅多に人が通らないから寛ぐにはちょうどいい場所なのだ。
跨いで行ってくれても良かったのに、とは口が裂けても言えなかった。私以外の人であっても、この状況で咄嗟に出てくるのは謝罪の言葉だけだと思う。
里の皆が怖がるこの人は確かに怖い。アカデミーの同期なのに、私は今まで彼と話したことがない。
もちろん彼に声をかけて名前を呼ぶなんて用事がないからできない。たとえ用事があったとしても他の人に押し付けるかもしれない。それくらい彼の存在は色々な意味で特別なのだ。
立ち上がってから「どうぞ」と言おうとしたけれど、あまりにも怖くて言えなかった。
しかし私なんか眼中に入っていないようで、彼は廊下の奥へ消えようとした。
普段からこれだけ殺伐としてたらそりゃ誰も近づけないよなぁと、彼の後ろ姿を見て思う。
人柱力って皆彼のような人間なのだろうか。そういえば彼の中にいる生き物って何だっけ。
「猫……いや狐……狸?」
途端に寒気が押し寄せる。全く熱くないのに何故か汗が止まらない。ただ思ったことを呟いただけなのに一瞬でこの場の空気が凍り付いたような気がした。
ゆっくり振り返る彼の表情はさっきより恐ろしくて、背中につうっと冷や汗が流れる。
いつの間にか彼お得意の砂が威嚇して、今にも私に襲い掛かりそうだった。初めて殺気を直接当てられたせいか、足が動かない。
彼と話したことはないし、何をしたのかなんて噂でしか聞いたことがなかった。実際に目で見るまで噂なんて当てにならないと思っていたけれど、この殺気のせいで噂が本当だと思わざるを得ない。
大きな手のような形になった砂が私に近づく。逃げないと殺される。でもきっと逃げてもあの砂から逃げられない。どうしよう、何か言わないと――
「ご、ごめん!違うの!えーと、そう!き、聞きたいことがあるだけで……」
「……何だ」
「えーと……シュカク?って……狸だっけ?」
後悔してももう遅い。上手く言い繕えばいいのに思ったことがそのまま出てしまった。本当に馬鹿だった。冷や汗以外にも涙まで出てきそうになる。
砂が威嚇しているのはさっきと変わらず、いつでも私を殺す準備はできている。すぐにでも殺すのかと思ったけれど、一向に砂が襲ってくる様子はない。
じりじりと苦しめるつもりなのかもしれない。あの砂で私を握りつぶすのだろうか。今だけでいい。軟体動物になってすり抜けたい。変化の術でなんとかなるかも……でも試したことがないから自信はない。
どうやって逃げるか、そればかり考えているうちに、目の前の砂の手はさらさらと落ちて行った。しかし彼の表情は全く変わっていない。
「だったら何だ」
「え!?……いや、聞いてみたかっただけ……ごめん……教えてくれてありがとう」
ほんの一瞬、変な間があったかと思えば彼は一瞥して、今度こそ行ってしまった。
完全に彼の姿が見えなくなってからぷはっと情けない声が漏れた。知らないうちに呼吸まで忘れていたのだ。
初めて話した人に殺されそうになるなんて、と思ったけれど彼なら不思議なことではない。まだ心臓がどきどきしている。
怖かった、と口から零れた途端に涙が出てしまった。殺されてもおかしくなかったのに、運がいいのか悪いのか、素直に喜べない。
体中に残る寒気を抑えるように、私はしばらくうずくまって動けなくなってしまった。恐怖による涙はもう乾いたが、体の震えはしばらく止まることはなかった。
◇
あんな殺気を向けられるのはもう勘弁してほしい。やっと立ち上がって教室に戻った時、もう既にかなりの時間が経っていた。
変化の術の授業をさぼってしまった。教室を覗くと幸いなことに彼の姿は見当たらない。それもそのはず、くの一クラスに彼がいるはずがないのだ。それに気づいて胸を撫で下ろした。
隅っこで大人しくしていようと思ったのに、教室に入った途端、クラスの女の子達が押し寄せて来て囲まれてしまった。びっくりしている間もなく、皆口々に同じことを言うのだった。
「大丈夫だった?」
「近づいちゃ駄目だよ。殺されちゃうよ!」
女の子特有の高い声と人数の多さに気圧された。恐怖半分、興味半分、といった表情の子がほとんどで、飛び交う言葉を理解するまで時間はかからなかった。
こういう時に集まってくる子のほとんどが、普段そんなに話したことがない子達であるのが不思議でならない。というか、何で知ってるの?
ついさっきの出来事の恐怖が尋常じゃないので、できれば放っておいて欲しかった。しかしそんなことを言えるわけもなく、適当に返事をすることしかできない自分にうんざりする。
「も知ってるでしょ?目が合っただけで攻撃してくる奴なんだよ」
「あー……うん」
くの一クラスのリーダー格の女の子が得意げにそう話す。いかに彼が危険であるか、どんなに恐ろしいかを大げさに他のクラスメイトに演説し始めた。
確かに殺されそうだったけれど、私にも少しは非があった。廊下を完全に塞いでいたし、狐だの狸だの失礼なことを訊いてしまった。
むしろそれで殺されなかったのだから、彼は噂に聞いていたよりもずっと慈悲深い……いや、それは言い過ぎか。通り道を塞いだくらいで殺されかけたら命が持たない。
「機嫌悪かったら絶対殺されてたよ!」
「うん……やっぱりそうなのかなぁ」
私の声は皆の耳には届かなかったようで、いつの間にか私を忘れて彼女達は彼の噂話で悲鳴を上げたり、面白おかしく勝手に話を盛っていた。
確かに彼は怖い人だし色々言われるのは仕方がないけれど、怖い人だと思っているなら話さなければいいのに。どうして面白おかしく話す必要があるんだろう。
やっと教室に戻ってこれたと思ったのに、気分が悪い。こっそり教室を抜け、しんとした廊下に出た途端にため息が漏れた。
幸い誰も私が教室を出たことに気が付かなかった。もう授業なんてどうでもいい。具合が悪くなったと言って早めに家に帰ろう。
教室から離れて初めてほっとできたのは正面玄関から出て空を見上げた時だ。大好きな鳥は飛んでいなくても、窓枠の外にある空は広くて清々しい気持ちになる。
だらだらと歩いて玄関先の階段に腰かけ、ぼんやりしているだけで心が満たされる。一人でいる方がずっと楽だ。
彼も同じように考えているからいつも一人でいるのだろうか。しかしさっき見たあの目を思い出すと、完全に私と同じだとは思えない。
「あーあ……空飛びたいなぁ」
空を飛んでどこか遠くへ行けたらすごく楽しそうだ。他里の人と話してみたい。友達を作ってみたい。……私に砂隠れの友達がいないわけではないのだけれども。
もしかすると他里にも人柱力がいて、その人も彼のように冷たい目をしていて、同じ里の仲間に殺気を向けているのかもしれない。
いや、人柱力にとって里の人間は仲間じゃないのだろう。彼を見ているとそう思えてならないのだ。
彼は今の私のように、好きで一人でいるわけではないのかもしれない。私も一人で過ごす時間が増えたら、彼の気持ちを少しでも理解できるのだろうか。理解できたところで何かが変わるなんて、そんなこと私にも分からないのに。