彼の神様



 ホウオウが舞い降りてから一週間が経った。そして今日はマツバが部屋から出て来なくなって一週間目でもある。
 幸いなことにジムに挑戦しに来るトレーナーもいないようだった。けれどイタコのおばあさん達や修行僧のおじさん達は皆マツバのことを心配している。エンジュに来てくれないかと彼らから連絡を受けたのは昨日のことだ。
 一方、ホウオウを呼ぶことに成功した少女はそのまま旅へと戻ったらしい。彼女は彼女でマツバを気にかけていたけれど、その時のマツバは何事もなかったかのように振る舞い、少女と別れるまであの穏やかな笑顔を崩さなかったそうだ。
 エンジュに着いてから真っ直ぐジムに向かって話を聞きに行く。ジムトレーナーの様子よりも周りにいたゴーストタイプのポケモン達の様子が酷く慌てふためいていたのでそちらの方が気になった。
 それからマツバの家を訪ねてお手伝いさん達の話を聞いた。ここでもゴース達があちこちで不安そうに漂っていたので話どころではなかった。

「最近じゃ食事にもほとんど手をつけなくて……」
「じゃあ部屋から一歩も出てこないんですか?」

 ちょうどお盆に食事を乗せたお手伝いさんが戻って来た。一切口をつけていないというのは本当のようだった。こんなに美味しそうなご飯を食べないなんて。けれどもマツバのことを思うとそれを口に出すのは酷な気がした。
 お手伝いさんにお願いしてマツバの部屋に向かう。途中で見慣れたゴースが一匹やって来て私の周りをくるりと一周した。ついて来いというように私を見て先頭を漂うゴースは悲壮感に溢れている。
 部屋の前まで来た時、ついて来てくれたお手伝いさんは「私はこれで」と言って立ち去った。近寄りたくても近づけないと言ったところだろうか。襖の向こうから不穏な空気が流れているのを感じる。

「マツバ。私、だよ。入ってもいい?」

 なるべくいつもの調子で声をかけた。それに反応したのか部屋の中から何か聞こえたが、それが声なのか音なのかよく聞こえなかった。
 ゴースがすうっと壁をすり抜けてその奥へ行ってしまったので私も襖の取っ手に手をかけ、部屋の中へ一歩踏み出した。
 部屋を見てまず驚いたのは、まだ昼だと言うのに部屋の中がとても暗いこと。もともと日が当たりにくい方角だったとかそういうことではない。ここは南向きの部屋だ。
 暗がりの犯人はマツバとその周りにいるゴース達。これが夜ならばもっと鬱蒼とした雰囲気だったに違いない。当の本人はと言うと、部屋の隅にある机にもたれ掛かってうな垂れていた。
 なんて声をかけたらいいんだろう。崇拝にも近い憧れを抱いていた存在が、ある日突然他人に奪われてしまった。それを悪としないところがマツバの美徳だと思うけれど、内心穏やかではないはずだ。

「……すまないね」

 まさか彼が口を開くなんて思いもしなかった。けれどもマツバは顔を上げない。

「そろそろ外に出ないといけないことは分かってる。皆に迷惑をかけていることも……ただ、気持ちの整理がつかないんだ」
「皆そんなこと思ってないよ。気持ちの整理がつかないのも、仕方ないと思う」

 こういう時言葉を選ぶのが下手すぎる自分にうんざりする。人を支えてあげるということが苦手なのかもしれない。私はマツバに支えられてばかりだったと言うのに。
 マツバのように常人には見えないものを見ている人は感受性が豊かである、いや、豊か過ぎる。そんな話を修行僧のおじさんに聞いたことがあった。豊か過ぎるが故に彼は感情を抑えつけようとしているのかもしれない。
 私は苦しい時に我慢できないし悲しい時は耐えられない。だからどうにかしてそれを吐き出そうとするもシジマさんは「お前は単純な奴だ」と言う。単純であることと繊細であること、どちらも必要だと分かっているのだけど上手くいかない。

……なんで君が泣いてるんだ」
「さぁ、分かんない。マツバが泣かないからかな」

 やっとマツバの顔が見えた。死にそうな顔しているくせに私のことを気にかける優しさがまた辛い。
 もしも自分が崇拝するほど大好きな存在が誰かのもとへ行ってしまったら。私はきっと耐えられない。マツバの対象がホウオウであったように、私にもそういう存在がいるのだ。独占するような相手じゃないと分かっていても納得できない自分がいる。
 あぁ、考えるだけで悔しい。辛い。悲しい。

「マツバも泣けばいいのに。いつも我慢するよね……昔からそうだった、ズズッ。ちょっとは、ズッ、すっきりするよ」
「……鼻かみなよ」

 やっと笑った。いや、呆れた顔だけれども。ゴーストがティッシュを私に届けてくれたのでありがたく使わせてもらうことにする。
 彼らもこんなにマツバのことを心配している。しかしその対象が私に切り替わったのか、一匹また一匹と私の周りを漂うゴースが増えていく。慰めにきた私がこんな調子でどうするのだ。
 鼻をかむとみっともない音がした。少し恥ずかしかったが今更だ。周りのゴースにお礼を言った時、彼らの内の何匹かは目に涙を浮かべていた。

「すっきりした?」
「うん、ごめん。こんなことをしに来たんじゃないんだけどね」
「いい歳した大人なんだから……」

 マツバはいつものように穏やかな表情をしていた。やっと動いた彼の体はふらっと倒れてしまうかと思ったけれど、案外しっかりとした足取りで私の目の前までやって来た。
 自然な動作で私の涙をすくった後にゴース達にも同じことをしてあげたマツバは、さっきまで背負っていた淀んだ雰囲気などもう纏っていなかった。