彼女の神様



 子どもの頃にテレビで特集していた「月と人間」とう番組を未だに覚えている。友達二人を僕の家に呼んで一緒に観た。
 人間は地球の外に行けるのだと知った後のは「それなら海の底にも行けるかも」といつも目を輝かせて話した。時には彼女の質問が大人を困らせることもあったようだけれど、それは子どもの純粋な疑問だったのだから仕方がない。
 毎日海を見に行っては深海がどんな場所なのかを想像していた。空を見ればポッポやオニスズメが飛んでいるけれど、海に潜らなければメノクラゲもヒトデマンも見られない。一人で海に入っては駄目だと忠告されていたのでは渋々その約束を守っていたようだ。
 毎日穏やかな海を見ては「海面からいつかひょっこり海の神様が現れるんじゃないか」と話し、それを聞くのはいつも僕ともう一人の友達だった。神様どころかメノクラゲを見ることもできず、よく見かけたのは釣りをしているおじさんが時々釣り上げるコイキングくらいだった。

 ある日、いつものようには海を見に行こうとしたのだけれど、その日は嵐が近づいて雨も風も酷いものだった。
 外に出ようとすると母親に止められた。しかし子どもの好奇心はそう簡単に抑えられるものではない。こっそり家を飛び出したは嵐の日が怖いとは思わずその禍々しさと荒々しさに心惹かれた……と後から教えてくれた。
 いつも海を眺めている砂浜に来ると、そこで初めてメノクラゲを見た。荒々しく波打って流されていたのだが、まさかこんな形で見ることになるなんてと不思議な気持ちになった。
 助けてあげようかと思っている時だった。波が押し寄せを海の中へと引きずり込んだ。
 大人でさえこの嵐の中を泳ぐのは難しいのだから子どもの小さい体ではもっと難しい。母親の言うことを聞いておけば良かった。生まれて初めて海に入ったのにこんな目に遭って残念だ。波に飲まれながらそんなことを思っていたのだそうだ。
 しかし死ぬかもしれないと思っていたは生きて帰って来た。紺碧の海の中で白に近い銀色が光ったから助かったのだそうだ。息もできないほど苦しかったはずなのに、その銀色が彼女を包み込んでくれた。
 気が付いた時、はタンバシティの波打ち際で大勢の大人達に囲まれていた。

「会えたらどうするんだい?」
「あの時助けてくれたかどうかは分からないけど、多分助けてくれただろうからお礼を言いたいな」
「助けたかどうかわからないのにお礼を?」
「だって海の神様ならきっとそうするよ、絶対!」

 あれから10年近く経った。見渡す限りの海原は太陽に反射してきらきら光って眩しいが、この景色は昔から何一つ変わらない。の言う海の神様も、この広い海原のどこかで身を潜めているのだろうか。
 アサギシティの海岸からは辛うじて渦巻島が見える程度だ。ただし4つの島の内の1つだけ。離れているのにあの島同士が繋がっているというのが不思議でならない。
 はたまにこうしてニョロボンに乗ってアサギへやって来る。大体の目的はアサギの灯台で修業すること。あとは僕かミナキ君に会う時くらいだろうか。そういえば彼は今何をしているんだろう、と呟いたら「スイクン追いかけてカントーに行ったよ」とが言った。昔から変わらない彼の行動力には感心する。
 彼女も僕やミナキ君と同じように長い間、海の神様を想い続けているのだ。

「明日ね、ヤナギさんに挑戦するんだ」
「随分と急だね。勝てそう?」
「自信はあるとは言えないけど……やっとシジマさんに勝てたから大丈夫、だといいな」

 にしては珍しく歯切れの悪い言い方だ。負けたらまた挑めばいいという考えは今は浮かばないのかもしれない。
 彼女が師匠と呼ぶシジマさんからバッジを受け取った時、あまりの嬉しさに叫びながら海へ飛び込んで行ったと、彼女からではなくシジマさんから聞いた。「少しはたおやかさを持ってくれないものか」と呆れながらも嬉しそうな彼の様子に苦笑することしかできなかった。
 けれどもその師匠から認められたのだからきっと大丈夫。ヤナギさんとも互角に戦えるはずだ。

「君なら大丈夫。勝てるよ」
「あれ、ジムリーダーが同じジムリーダーを応援しなくていいの?」
「じゃあヤナギさんを応援しようかな」
「いやいやそんなこと言わないで!」

 なんだかんだ言いつつも彼女を応援したい。そのままエンジュを超えてチョウジまで行く姿を見送った。それが5日前。
 何度も電話したが繋がらない。「マツバ勝ったよ!アイスバッジもらえたよ!」という電話の後、はタンバに戻ってそのまま渦巻島へ渡った。その後の連絡が一切ないので流石に不安になってしまう。
 そして今朝、エンジュの舞妓さんから聞いたのだ。とある少年……以前僕のところに挑戦しに来たヒビキ君が渦巻島でルギアと対面したと。
 もしもがルギアに会うことができたのなら、真っ先に誰かに連絡しそうなものだ。それが僕であったなら尚更良かったが今はそんなことはいい。もしかすると直接話に来るだろうかと期待をしていたが、ヒビキ君の話を聞かされた後ではもうそんな気は起らなかった。
 こちらから何度電話をしても繋がらない。シジマさんに聞いてみても家には帰っていないようだったので、もしかしたら渦巻島の中で迷子になっているのでは、と嫌な予感が浮かぶ。もし水辺で足を滑らせて気絶していたら、と悪い方にばかり考えてしまう。
 不安に駆られていたその日の夕方、から連絡があった。案の定渦巻島で迷子になっていたようだった。

「今から家帰るから大丈夫だよ。何度も連絡くれたんだよね、ごめん」
、ルギアは……」
「一足遅かったみたい。あの男の子とちょうどすれ違いになっちゃったみたいだし、仕方ないよ」

 思っていたより冷静な声だった。しかし顔が見えないからそう断言するわけにはいかない。あれだけルギアに心酔していた彼女が、会ってお礼を言いたいという目的を達成できなかったのにこんなに冷静でいられるなんて。幼い頃からずっと、いつか会う日を夢見ていたはずだ。

「渦巻島でずっと彷徨ってたら会えるんじゃないかと思ってたけど、ちょっと遅かったみたいだね……ズズッ」
……」
「渦巻島寒いから風邪ひいたかな?そろそろ帰るよ。家に着いたら連絡するね」

 一方的に電話を切られてしまった。なんて声をかけてあげれば良かったのだろう。
 ホウオウが舞い降りてそのままいなくなってしまったあの日と同じだ。悲しみが押し寄せたあの気持ちは僕には重すぎた。けれども今となっては過ぎたことだし、ホウオウがコトネちゃんと一緒にいられるのならそれでいい。
 は僕とは違う。正反対の性格で考え方も感じ方も何もかも違う。それなのに、それだから、何を考えているのか大体分かってしまうのだ。
 あの感情の矛先は、僕は僕自身であるけれど、彼女はどこへ向かうのだろう。

「……大人だからとか、そんなのは関係ないのかな」

 ゴーストがそわそわとして僕の顔を覗き込んだ。あの日のことを思い出した。きっと今の彼女には何より、彼女が会いたがっていた海の神様が必要なのだろう。けれども僕には僕にしかできないことをしてあげたい。

「明日、お菓子と鼻に優しいティッシュを沢山持ってに会いに行こう」

 そう言うとゴーストは嬉しそうに一回転した。