座敷牢から見える月に照らされる自分が惨めだ。
電気なんてこの時代には存在しないから頼れるものは月明りだけ。真っ暗闇よりはずっと良いと思い込もう。そう努力したが、それはかえっての気を滅入らせるだけだった。
何時間も同じ姿勢で高い位置にある月を見ていたから体が痛い。足を伸ばそうと一旦膝立ちした途端に眩暈がして、そのまま体制を崩して床に倒れ込んでしまった。
ここに来てからまともに眠っていない。今寝てしまえば次に目が覚めた時、いつもの現実に戻るだろうか。
そう思って目を閉じた時だった。
「やれ、まだ口をつけておらぬのか」
暗闇にぼうっと浮かんだ相手を見る前には小さく悲鳴を上げた。
声の主の男は足音一つ立てずにここへ来ることができるのだ。いきなり現れるとこちらの心の準備ができていないため驚いてしまう。
この地下へと向かう階段の足音が聞こえてくれば余計に不安になる。一体どんな命が下って自分の元へ訪れるのか、そればかり考えてしまうからだ。なのでこの男がそろりとやって来るのは、そういった不安が取り除かれるという意味では良いことなのかもしれない。
初めは輿に乗ったこの男を死神だと思った。そして後からやって来た銀髪の男を殺人鬼だと思った。酷い出会いを経ては今、この地下の座敷牢に閉じ込められている。
「毒が入っているか気になるか?そんなことをせずとも、殺す気があるならぬしなどとうに死んでいるはずよ」
「やっぱり、私を殺すつもりだったんですか」
「間者であればな。だがぬしの異質さはそれ故のことではないと皆理解した」
初めてここに来てから会ったのがこの男で良かったのだろうかという不安が消えない。
しかし、少なくとも後から対面した銀髪の男でなくて良かった。迷うことなく刀を抜いて自分に刃を向けたのはあの男だから、最初に会ったのがあちらであれば間違いなくは今ここにいない。
それにその銀髪の男はを異質だと決め込んで言うことを信じてくれなかった。暫し様子見を、と進言したのは目の前にいる大谷と名乗った男だ。
だからと言って大谷が「いい人」ということではない。
助けようという素振りを全く見せないくせにこうして度々の元へ訪れる。そしてそれを楽しんでいる節がある。そういうところに他の人間とは違う奇妙な恐ろしさを感じるのだ。
「何が気に入らない?」
「……そうじゃなくて、ただ、食べたくないだけ」
「ほう。ここに入れられて数日経つというのに腹が減らぬと申すか」
大谷は格子に近づいての様子を見ようと輿をぐっと近づけた。動物園にいるような、見世物のような気分になるから、はできるだけ格子から離れることにしている。
が幽閉されているこの座敷牢には、人が出入りするための扉の隣にそれよりも更に小さい扉がある。座敷牢の内側にはそこを通って握り飯と水の入った湯呑が用意されていた。
何が入っているか分からない怖さもあるが、満腹なわけでもなく出された食事が気に入らないわけでもない。ただ食べたくないだけだ。
はちらりと与えられた食事を見た。人間に必要な食事と水分がそこに用意されているのは、せっかく捕らえた娘が死なないようにという配慮の証。そのくせこんな場所に幽閉するのだから、これでは自分を生かしたいのか殺したいのか分からない。
「ここ数日われはずっと考えた。何故ぬしが頑なに食事を拒むのかをな」
まるで自分の思考を見透かされているようで困惑した。恐る恐る大谷を見れば、彼は顎に手を当て品定めするようにこちらをじっと見つめている。
「一つ訊こう。ぬしはここを何処と心得る?」
「ここ、は……戦国の世って、貴方が」
「そういう意味ではない。ぬしが思うこの世を訊いているのよ。例えば、そうよなァ……黄泉の国と考えたことはあろうか?」
大谷の言葉には色を失った。その反応を心待ちにしていたかのように彼は肩を揺らして笑い始めた。
「ヒヒッ、黄泉戸喫が後の世まで伝わっているとは愉快ユカイ」
「……」
「ここが黄泉の国かもしれぬから食うわけにはいかぬ、と」
「……だって本当にそうなら、食べたらきっと、帰れない」
異界の食べ物を食べてしまったら元いた世界に帰ることができなくなる。
そんな神話を本で読んだことがあった。神話だの伝承だの、そういう分野に傾倒した子どもの頃の自分の行動は果たして正しかったのだろうか。
ある女は冥界で果物の種を食べ、その分だけ冥界で過ごすことになった。
またある女は死後に黄泉の国の食べ物を食べてしまい、彼女の夫が現世から迎えに来ても結局帰ることができなかった。
今の自分はその世界の住人ではなく、現代社会に生きる大勢の人間の中の一人だ。神話に登場するような神ではないと分かっていても、既に頭に植え付けられた知識を捨てられない。幽霊に怯える子どものようで我ながら情けないと思っても簡単に拭いきれるものではなかった。
これが夢であればと何度も願った。
けれど日が昇るのを数えてもう何日も経つ。夢の中で寝て覚めてを繰り返すなんてあり得ない話だ。
「やはりな。ようやっと合点がいったわ」
これくらいの歳の娘ならば迷信や御伽話の一つや二つを信じているのだろう。
幽閉されてもなおそれを信じて食事を拒む姿が大谷の目に滑稽なものとして映った。
しかしここはの知らない日の本であるというだけで、死者の国ではない。大谷もも生きている。確かに二人ともここに存在しているのだ。
大谷はの言葉を肯定も否定もしないつもりだった。しかし敢えて教えてみるのも良いかもしれない。
「娘、一つ教えてやろう。ここは黄泉の国ではない。まァたまに死人は出るが、争いを経てこの世に生きるは生者のみよ」
「私にとっては、黄泉の国もこの場所も同じだもの」
「ぬしにはわれが死者に見えるか?」
楽しそうに大谷が訊ねた。しばらく目の前の娘の様子を見ているうちに、彼女が自分を亡者かそれの類であると認識しているということに気が付いたのだ。
大谷の予想通りは気まずそうにして口をつぐんでしまった。
独特の笑い声が大谷の口から漏れる。その笑い方が余計に人間らしさを欠いているのだが、にそれを言うだけの勇気はなかった。
「ぬしは元いた場所に帰りたいか?」
「……帰りたい」
「食わねばこの座敷牢で朽ち果てるだけよ」
「でも」
「食ったら帰ることができぬと誰が申した?それこそぬしの思い込みであろ」
本当にそうなのだろうか。大谷の言うことは間違ってはいない気がする。ここは死者の国であると誰かがに告げたわけでもない。
それでもこうして暗い座敷牢に閉じ込められていると、自分は罪人でありこれから極楽か地獄かどちらへ行くのか閻魔の判決を待っているような気持ちになる。
何日もこの薄暗い空間で過ごし、味方が誰もいないこの状況の中でいつしかそんな感覚が芽生えてしまった。
「早死にしたければこのまま拒み続けるも良し」
のいた世界がどういうものであるのか、ということを気にかけているのは他の者達。それが役に立てば尚良い。
大谷の望みは不幸を見ること。
そして目の前の娘が迫られている選択はどちらも彼女にとって悪手であり、それを見て喜ぶ者は大谷だけだ。
死ねばそれまで、死なねば死ぬ時まで不幸を与えるのみ。できたら後者が望ましい。
「……嫌。死にたくない」
「ヒヒ、ぬしが遠い先の世から来たと言うならば、女とはどの時代においても我儘なものよなァ」
こうして大谷の話を聞いていると、この時代がいかに人と死が近いものであるかを改めて思い知らされる。彼らからすればが生きていた世は生温いことだろう。
どちらにしても自分はこの場所で死ぬのかもしれない。
もう二度と元の世界に帰れないのかもしれない。
けれど、だからと言って今すぐ死ぬという選択肢を選ぶ度胸なんてなかった。大谷やその他の人間と違って、今まで死というものはの身近になかったのだ。
恐怖による震えを抑えるように自らの腕を抱くを見て大谷は目を細めた。
自分の言葉によってこの娘は迷い始めている。もう少しすればこちらに縋ってくる。それが目に見えて分かり、歓びでぞくりと震えた。
「娘よ、こちらへ」
格子の外から大谷が手招いた。その姿が死に誘うように見えて躊躇ったが、まるで赤子に話しかけるような声色で呼ぶものだから自然と足が動いてしまう。
一応格子を隔ててはいるが初めてこんなに大谷の近くまで近寄った。
暗闇であるせいか彼の目が恐ろしい。
好きでその目を見ているわけではないが、そこは唯一大谷の感情が見え隠れする部位でもある。とは言っても大谷は殆どそういったものを隠しているので、出会って数日のに彼の考えていることが分かるはずもなかった。
大谷は座敷牢の前に置かれた皿に手を伸ばし握り飯を小さく割った。格子の隙間から手を伸ばしの目の前にそれを持って行く。
「口を開け」
「な、何を……」
無理矢理食べさせようとしているわけではない。食べさせて腹を満たしてやりたいとも思っていない。
ただこの目の前の哀れな娘が自ら不幸を選択する様を見たかった。
格子の隙間から大谷の手がの口元まで伸びる。は自ら前へ乗り出すことはしなかったが、その手から遠ざかろうと引くこともしなかった。
「食うてみろ。味は悪くない」
そう言った男の魂胆が見えない。餌付けをしようとか延命させようとかそういう目的がないことだけはにも分かった。
だからこそこういう行動を理解できないし何か裏があるのではと勘繰ってしまう。
それでもこうしてこの座敷牢に訪れるのはこの男だけで、が縋ることができるのも突き放すことができるのもこの男だけなのだ。
物音ひとつなくここへ訪れることに怯えながらも、二度と来てくれなかったらどうしようという恐れもある。その矛盾に気付かず、いつの間にかの中で彼はなくてはならない存在になっていた。
迷っているうちに握り飯の欠片が唇に触れた。
大谷が手を奥へと伸ばしたのかが近づいたのか、彼女がそれを口に含んでしまった今、そんなことはもうどうでも良かった。
「美味いか」
「……うっ、うう」
「ヒヒ。そうかそうか」
ただ食べてしまったという事実のせいで堰を切ったように涙が溢れた。吐き出すわけにもいかずゆっくりと咀嚼した。味はよく分からない。
助けてもらったと思いたくはない。
だがこのまま死ぬかもしれなかった状況に手を差し伸べてくれたのは大谷だ。
白布の巻かれた指がの唇をなぞる。死神だとばかり思っていた男がそのまま優しい手つきで涙を掬うものだから、彼が人間であるのかそれ以外の者であるのか、いよいよ分からなくなってしまった。