鈴の音聞こえず



 エンジュの外れにある実家は、エンジュいちスズの塔に近い家であるとは思っている。辺りは驚くほど静かなので夜遅くに帰宅すると少し怖いと感じる。スズの塔に近いというだけであまりその恩恵を受けたことはなかった。
 の部屋の窓からは威厳たっぷりの美しいスズの塔が見える。当たり前のことながら季節によって景色は変化するが、秋が一番綺麗だ。理由は単純なもので紅く色づいた紅葉が塔に映えるからである。
 塔の主は今日も帰ってこない。昔からずっと眺めている景色は代り映えしないので、最近では気に留めることもしなくなってしまった。

 ジムや歌舞練場がある辺りは人が多いがここは静かな場所だ。ご近所さんなんてこの辺りには少し離れた場所にしかいないので、部屋の窓を開けても雑音は殆ど入ってこない。
 いつものように部屋で本を読んでいると、開けっ放しの窓からクロバットが入って来た。散歩にでも行っているらしく、いつも窓から出入りしている。クロバットの羽音は普段ほとんど聞こえないが、静かなこの辺りでは耳を澄ますと聞こえてくる。
 スズの塔の主もいつかはクロバットと同じように羽根を羽ばたかせて帰って来るのだろうか。大きな鳥ポケモンならすごい音を立てそうなものだ。

「お帰り。楽しかった?」

 機嫌が良さそうに鳴いたので「満足した」ということらしい。いつもクロバットがどこに行っているのかは知らないが、誰かに迷惑をかけることだけは駄目だと言ってあるので多分粗相はしていない、はずである。
 今日も何も問題なく帰って来てくれたと思った。クロバットの口元を見るまでは。

「あれ?何それ……こら!その口についてる物は何!?」

 白い粉のような物。ぐいっと親指でそれを拭きとってやるとそれが砂糖であることが分かった。クロバットはふふんと自慢げな顔をしている。

「どこかで食べて来たの?つまみ食いとかそういうのはないと信じたいけど……誰かからもらった?」

 更に問い詰めようとした時、さくさくと枯葉を踏む音が聞こえた。家族は今日遅くなると言っていたから他の誰かだろう。
 クロバットが入って来た窓から外を見た。確実に誰かがスズの塔に向かっている音は聞こえるのにまだ姿は見えない。と言うのもその原因は周辺にある沢山の紅葉の樹のせいである。
 そういえば今日は何曜日だったかなとカレンダーを見てみると、の予想していた通り月曜日だった。週の始めを忘れるなんてどうかしているなと自嘲した。
 足音が近づいて来た。ようやく見えたのは秋色がよく似合う人。しかし顔はよく見えない。
 毎週ここへやって来ては、彼は自分と同じようなことを考えているのかもしれない。……と思ったが、は毎日スズの塔を見ている。見飽きていると言ってもいい。塔の主についても、そういえば今どうしているんだろう、くらいにしか思っていないので彼とは違うのかもしれない。

「……何よ」

 真横でクロバットがじとっとを見つめている。彼がこういう仕草をする時は決まって何かを訴えかけようとしている時だ。ちょっと馬鹿にしたような目をしているように見えるが、あくまでも気のせいだと思い込むことにしている。
 これが女友達であれば「あの人のことが気になるの?」と喜々として言われそうなものだが、にその気は全くない。
 窓から見える人をは知っているし、エンジュに住む者なら誰でも知っている。
 けれど大抵の人は直接的な関わりはないし、バトルに秀でていない者であれば尚更だ。もその中の一人であり、ジム戦なんて生まれてこの方一度もしたことがない。知っているのは彼がエンジュのジムリーダーということ。そして塔の主を待っているということ。

「何、また外行きたいの?」

 クロバットはさっきからそわそわしている。何度も窓の方を見るものだからは声をかけた。
 しかしそうではないと言う風に体を揺らしたクロバットはふよふよと窓に近づき、どこかを眺めてはちらりとの方を見た。

「……」

 あまり遠出を好まないは、手持ちのポケモン達に悪いと思って彼らに自由な時間を与えている。クロバットがいい例で、それぞれ好きなように外へ出かけて行くのだ。
 クロバットはじっとスズの塔を眺めている――という風にの目に映った。その塔へ向かって行くエンジュシティのジムリーダー。知らないうちには目で彼を追っていた。

「……早く会えるといいね」

 当然返事が返ってくるはずもなく、彼の後ろ姿が消えるまで眺めていた。それから先にあるスズの塔を見つめる。私だって会ってみたい、と思ったのは果たしてどちらに対してか。
 の横でクロバットが残念そうにため息を吐いた。そして彼は机の上にあった蜜柑を器用に足で挟んで窓から飛び出して行った。





 エンジュジムを出る直前、マツバはゲンガー達を探していた。出かけると言ってあったはずだが、ジムを出る5分前になっても帰って来なかったのだ。
 イタコ達も分からないと言うのだから恐らくジムの外に出て行ったのだろう。裏の方に回ろうとしたところで聞き覚えのない鳴き声が聞こえた。
 マツバの予想通り裏手にゲンガーとゴーストがいた。それから見知らぬ顔が一匹。自分の手持ちに似たような、やんちゃそうなクロバットがゴーストタイプの中に紛れていた。
 クロバットに野生なんていないような気がして、きっと誰かの手持ちなのだろうと予想する。マツバに気が付いたクロバットは人見知りすることなくにんまり笑った。

「やぁ。ゲンガー達と遊んでくれてありがとう。君はどこから来たんだい?」

 それに答えるようにクロバットは少しだけ高く飛び上がり、スズの塔の方を向いた。瞠目したマツバはふっと微笑んで、再び近くまで寄って来たクロバットを撫でた。

「スズの塔?神秘的な所から来たんだね。……そうだ、良かったらこれをお食べ」

 手に持っていた袋から中の物を取り出そうとすると周囲のゲンガー達が一斉にマツバに群がった。君達は後だよ、と言ってマツバは真っ先にクロバットにそれを差し出した。
 ゲンガー達にあげるつもりだったお菓子は贔屓にしている店の新商品だ。一瞬嬉しそうにしたクロバットだが、はっとしてふるふると首を横に振った。
 知らない人から安易に物をもらわないように、という主人の教えがクロバットを躊躇させた。少し警戒するようにマツバの掌の上のお菓子の匂いを嗅ぐ。
 ちらりとゲンガーを見るとポケモン同士の合図のような、そんな仕草をした。「食べても大丈夫」と言っているのかもしれない。

「君のご主人はしっかりした人なんだろうね」

 恐る恐るお菓子に口をついばんだクロバットだったが結局すぐに平らげてしまった。お菓子にまぶしてあった砂糖が口の周りについているのをマツバが取ってやろうとすると、それより先に宙に浮いて彼の周りをぐるぐると回った。
 少し離れた場所へ移動してちらりとマツバの方を向いて鳴いた。また少し移動してはまた振り向く。ついて来いと言われているような気がしてその後を追いかけた。
 何か目的があるのだろうか。不思議に思ってクロバットに続いたが、その道が毎週の習慣で通っている道だったので良しとする。まるで道案内をされているような気分になった。

「君もここが好きなのかい?」

 マツバの問いに答えるようにクロバットが笑う。スズねの小道を美しいと思うのは人間だけではないのかもしれない。
 この場所ではスズの塔を見上げて塔の主に思い馳せるのも良し、目を閉じて木々や風の音に耳を澄ますのも良し。そうしているうちにいつの間にか時間が大幅に経っているのだ。そんな風に時間をかけてしまうからマツバは比較的暇な週の始めにここへ訪れる。
 目を閉じて静かな空間に身を委ねていると、いつの間にかクロバットの羽音が消えていた。それに気づいたマツバは目を開け辺りを見渡したがやはりいなくなっていた。
 少し残念に思ったが、きっと持ち主の所へ帰ったのだろうと自分に言い聞かせて再び奥へと歩き出す。
 落ち葉を踏む音しか聞こえない空間はエンジュシティの一部であるのに、まるで浮世から隔離された聖域のようだ。その雰囲気に浸っていたマツバの頭に蜜柑が降って来るのはそれから間もなくのことだった。