息とし生ける温もりに



 咳き込む声が聞こえて三成は歩みを止めた。目的地である部屋から聞こえるが、それが止むまで息を殺して待つことにした。咳が止むと今度は息苦しそうに空気を求める呼吸がかすかに聞こえてくる。その苦痛が三成にまで及び、唇を噛み締め拳を握った。
 苦しむ部屋の主の姿が容易に浮かぶが、三成が行ったところで苦痛が和らぐわけではない。音が止んで激しい呼吸が聞こえなくなるまで三成はその場から動かなかった。
 微かな呼吸へと変わり辺りがしんとした頃、再び歩き出した。ほんの少し先の部屋だったと言うのに随分長いこと足止めを喰らったような気がした。
 閉めきった部屋の外から呼ぶと閑やかな声が返ってくる。先刻までの咳き込みが嘘のようだ。遠慮なく部屋の中へ踏み入ると、床から起き上がったが水に濡れた手を布で拭いていた。
 傍らに侍女がいて三成が入室するなり平伏したが、青ざめた顔をしてすぐに部屋から出て行った。両手に抱えた桶の中の水は透明ではない。その後ろ姿を三成が睨みつけるように見ていたからか、は苦笑して弁解した。

「喉が渇いたから水を持ってきてもらうだけだよ」
「侍女がこの部屋にいなくてどうする」
「じゃああの子が帰ってくるまで私の相手をしてくれない?」
「私に貴様の世話をしろと言うのか?」
「いいでしょ。訪ねたからには色んな話を聞かせてよ」

 脇にある座布団をぽんぽんと叩いたは三成に座るように促す。顔をしかめた三成だったが、前にも増して生気が失われたの顔を見て断るという選択肢は消え失せ、黙って座した。
 青白い顔はかつて尊敬した軍師を連想させる。病を得たばかりの頃のは、うちの軍は不運だねと冗談交じりに言った。それに憤りをぶつけた三成も今ならそれに同意できる。
 しかしその不運な女に話を聞かせろと言われても三成は話が上手い方ではないし、思ったこと以外口にすることもない。それを承知の上では彼をここへ留まらせた。

「刑部は元気そうだね」
「貴様よりはな」
「昨日来てくれたの。安芸へ行くみたいだから土産を頼んでおいた」

 この女は刑部が旅行へ行くとでも勘違いしているのではないのか。それでもそれをわざわざ口にしないのはそうしてしまうことでの体調が悪化するかもしれないから。たったそれしきのことで具合が悪くなるほどは繊細ではないが、普段から人に気を配ることがほぼ皆無な三成にとってはこれが精いっぱいの気遣いだった。

「官兵衛はどう?」
「フン、あれが役に立つ日など来るものか」
「でも連れて行くんでしょ?」

 三成の返答を待たずにいいなぁと漏らす。戦に赴くことが羨ましいとは不謹慎だが、戦場を離れて久しいに部屋に籠りきりの生活は退屈過ぎた。
 眠りたくもないのに目を瞑って休まなければいけない時、瞼を閉じた時に浮かぶのは豊臣の全盛期。輝かしい記憶が途切れてしまうのが惜しくて、先刻まで嫌だと思っていた眠りを難なく受け入れることができるのだ。
 先程からばかりが喋ってばかり。いつもに増して口数の減った三成の顔を覗き込む。人のことを言えたものではないが、彼も顔色が悪いように思える。じっと見つめていると早々に痺れを切らしたのか「なんだ」と睨み返された。

「顔色悪くない?」
「じろじろ見るな。貴様に言われたくはない」
「ちゃんとご飯食べて沢山寝ないと駄目だよ。体力が落ちた時に私みたいになったらどうするの」
「余計な世話を焼くな。煩わしい」
「また寝る間も惜しんで家康のことばかり考えてるんじゃないの?」

 言うのも聞くのも久しぶりな彼の人の名前は予感していた通り三成の顔を歪めた。以前なら「やってしまった!」と慌てて大谷に助けを求めただが、こうしてほとんど動かず寝たきりの生活を送っていると最早そんな恐怖など屁でもない。病が自分を変えてくれたと言えば虚しい響きだがそれが一番しっくりくる。
 変わったのはだけではなかった。瞬時に鬼の形相になったかと思えば、何を思ったのか、やや不機嫌さが増してはいるが、三成はいつも通りの澄まし顔に戻っていた。

「……その名を、口にするな。私が必ず斬滅してやる」
「どうだろう。案外先に死ぬのは……」

 続く言葉を予測していたらしい三成が遮った。先程より強い口調で制止される。きつく握られた三成の掌に深く爪が食い込んでいそうで、がそれを解いてやると案の定血が滲んでいた。

「勝手に死ぬことは許さない。最後までその身を秀吉様のために捧げろ」
「その言い方だと人身御供みたいじゃない」
「生贄一つで豊臣軍が勝利するのならば随分安いものだ。貴様は今できることに専念しろ」
「できることねぇ。そうだな、じゃあ三成達の無事を祈ることにする」

 それ以外に他にできることがないのだ。けれど神頼みをするなんて自分らしくない。三成もそう思ったのか一笑に付した。
 半生を振り返ればどう考えても自分は地獄行きだと思える行いばかりをしてきたと言うのに、今更神頼みだなんて虫がよすぎる。しかし自分のためではなく三成のためだ。
 三成もと大して変わらないのだが、彼をここまで動かすのは彼が崇める存在と自身の純粋さによるものだ。神とはむしろそういう純粋な人間を助けるものではないのかと思ったが、三成の不運続きを見る限りそうではないらしい。
 三成が地獄行きなら自分はそれより更に深い底へ堕ちるのだろう。目を閉じてそんな光景を想像していたは三成の声で目を開けた。

「貴様の祈りなど不要だ」
「大丈夫。神棚までの距離なら余裕で歩ける」
「無意味なことを……」
「何よ、できることをしろって言ったくせに」

 病が阻んでいる限りは戦場に戻ることができない。戻ったところで三成が生き残っているのかどうかも分からない。それならば先に消えた方がいいと考えたが、何から何まで秀吉を第一に考える三成には理解してもらえないだろう。
 その秀吉はとうに死んでしまったのに、なんて言おうものならの首は飛んでいたかもしれない。しかし病で死ぬより三成の手にかかって死ぬことは悪くないとも思える。

「まぁ、いつ死ぬかなんて分からないけど、三成が死んだらすぐ追いかけるから」
「ふざけたことをぬかすな」
「だって私が……」

 続く言葉は出てこなかった。突如は苦痛に顔を歪め、片手が口を覆うと同時に咳き込み始めた。もう片方の手で心の臓あたりを握りしめ、丸まった背が咳き込むたびに激しく上下する。
 口の中に広がる鉄の味の赤が掌から溢れ出していく。倒れ込みそうになったの身体を支えようと咄嗟に三成は腕を伸ばしたが、まるで三成を拒絶するかのようには彼に触れないように身を留まらせた。

 この姿を見られることを何より恐れていた。
 かつては戦場を駆け回った武将が、今ではほとんど褥から動くこともできず、病に体を蝕まれ血を吐く毎日を過ごしている。情けないやら悔しいやらで、哀れみも同情も要らないのに、そんな目で見られることに耐えられなかった。
 しかし珍しいことに、が何か言わなくともそれを感じ取ったらしい三成は具合を見計らって訪れるようになった。普段気遣いの一つもできなかったこの男にそんなことができるなんて、槍でも降るのだろうかと思ったくらいだ。
 それなのにたった今、その不器用な気遣いを台無しにしてしまった。
 バタバタと廊下から足音がして侍女が戻って来ると、三成は睨み殺すような目つきを向けて怒鳴り散らした。

「貴様、今まで何をしていたッ!!早く薬師を呼べッ!!」

 その様に驚いて悲鳴を上げた侍女は盆を置くとすぐさま部屋から飛び出した。慌てていたせいか水の入った茶器からは中身が殆ど溢れてしまってた。
 は隠すように三成に背を向けたが、既に夜着の上に血を落としてしまっている。指の隙間から溢れる赤は戦場で見慣れたものと何一つ変わらない。それなのに三成の顔から血の気が引いていく。
 吐血する姿や苦しむ姿を見て見ぬ振りして見舞いに来るなど果たしてそれは気遣いと言えるのか、今になって自問する。血など恐るに足りないのに、何故ここまで込み上げる恐怖に押し潰されそうになるのか。

「出て、行って……お願い」

 自分に向けられた背がこんなに小さかったことに今まで気がつかなかった。かすれた声の訴えは弱々しい。拒絶が永遠の別れのようで余計に三成の不安を煽った。
 三成が伸ばした手がようやくに届いてから、不思議と手の震えは治まった。正面からを抱いて壊れ物を扱うような手つきで咳き込み続ける小さな背を撫でた。らしくないと笑うなら笑えばいい。一層のことそうしてくれたら少しくらいは気が晴れる。
 けれどかつてのはここにいない。死を待つ身となってからは、少しでも自分や他人の悲しみを減らすために人と会うことを避けるようになった。
 久しぶりに触れた温かさは心は癒してくれたが体にまでは届かない。苦しみか、はたまた三成の行動のせいか、の目からはらはらと涙が滲んだ赤の上に落ちた。
 不器用な手つきの三成を押し返そうとしたがにそんな力があるはずもなく、そのまま三成の手に収まった。

「私を置いて勝手に逝くなど許さない……ッ!」

 「貴様を置いて行くものか」という一言がどうしても出てこない。言葉にしてしまったら安堵したがこのまま自分を置いて行ってしまうような気がした。
 そんな彼を置いて行くのは心許ない。どうして一人先に死ぬことができようか。怒気と悲嘆を含んだ三成の声がこの上なく辛く、咳き込みながら僅かな力を込めて三成の手を握ることしかできなかった。