なんでオレが、と呟いた回数は数知れない。気怠そうにしている佐助はもう何刻も前からずっと歩き回っている。
そう広くはない本城のあちこち探したが、目当ての人物――は見当たらなかった。仕方ないと思って城下の外に足を運ぶも、こちらの方が探す範囲が広くてげんなりした。
嫌々とは言え幸村に頼まれたからこうして探し回っている。複雑な事情はあれど今は幸村の忍だ。頼まれたことは一応きちんとこなすつもりではいる。
こんなに奥深くまで来たのは城下と外を繋ぐ門の辺りにの髪飾りが落ちていたからだ。面倒なことになっていないことを願いながら湖畔へ探索しに向かったのは、既に陽が傾き始めた頃だった。
先輩であるくのいちと協力して偵察を行っているおかげか、この辺りには敵らしい姿は見かけなかった。
それでも嫁入り前の娘が一人でこんなところまでやって来るのは感心できない。一体どんな躾をしているんだと佐助は心の中で悪態をついた。
途中で農民とすれ違うことはあってもの姿は一向に見かけない。探し回るうちについに湖畔まで辿り着いてしまった。無駄足だったか、と肩を落とし夕日に照らされた湖を眺めている時だった。
「まぁ、佐助じゃない」
佐助の感情とは正反対なのんびりとした声がした。左右だけでなく上下を見渡すのは最早忍の習慣であるが、この時ばかりはすぐに声の方に反応した。
少し離れた場所で湖の岸辺に腰かけたが小袖を膝までたくし上げて脚を水の中へ浸している。人知れず涼んでいる姿を見て、しかも佐助を見ても全く慌てないその様子が余計に佐助の焦燥を煽った。
「あんたここにいたのかよ!ったく、どれだけ探したと思ってんだよ!?」
「まぁ、私は夕餉までには戻るとちゃんと言いましたよ」
「誰にだよ!」
「父上に」
武家の娘が城下を歩き回るな、と昌幸は娘達に常日頃から言ってあるはずだが、姉妹二人共それを守っている様子はあまり見られない。
策とは言わないが、佐助には昌幸がわざと大事なことを幸村に告げなかったとしか思えなかった。ふつふつと昌幸に対する静かな怒りが湧いてくる。
しかし事実はどうか分からないし、こうしてを探しに来たのは幸村の頼みだったからだ。自分に頼んだ時の幸村の顔を思い浮かべると、不思議なほど早く冷静さを取り戻していった。
少し落ち着いて深呼吸する。そして未だに水から出る気配のないを見て大きくため息を吐いた。
「……まぁいいや。さっさと帰ろーぜ」
「もうちょっと待って」
はぁ?という声が思わず出てしまったのは佐助に悪気があったわけではない。は自分の隣を軽く叩いて佐助を見上げた。
「佐助もここにどうぞ」
「あのさ、オレはあんたを探しに来たんだけど」
「今日の私の夕餉は遅くしてもらうように言ってあるから大丈夫よ」
「いやいや、あんたが大丈夫でもオレは幸村様に頼まれてんだよ」
「じゃあ佐助も一緒に帰れば問題ないでしょう?兄上には私から謝ります」
「そういう問題じゃねーだろ……」
せっかく落ち着いた焦燥が再び湧き上がって来そうになったが、の顔が自分に頼みごとをした時の幸村と似ていたものだから、そうした気持ちは萎んでしまった。
イライラしたまま仕方なしだということを見せつけるようにどかっと座る。ありがとうとが礼を言ったが、佐助はそちらを見ずに胡坐をかいたまま頬杖をついて湖を眺めた。
そうしてから少しずつ日が落ちて行く。時々が足を動かして水面で飛沫が飛んだ。任務で潜伏しているのとは違う忍耐力を試されているようにも感じるが、痺れを切らした佐助は不服そうな声を漏らした。
「……なぁ、いつまでこうしてんの」
「もう少し」
佐助がを見るとその横顔は待ちきれないと言うような笑顔で満たされている。視線の先には湖が広がるだけ。何が楽しいのやら。佐助は再びため息を吐いた。
湖畔は少しずつ夜の闇に溶けていこうとしている。風のない夏の夜は日が落ちた後でも暑いはずだが、脚を水の中に浸しているは一人だけ涼しそうにしていた。
は再び泳ぐように脚を動かし、その度に佐助の視界にそれがちらつく。別にわざと見たわけじゃない。夜の中に白い脚だけが光っているようで目を奪われてしまうのだ。
「あっ」
「な、なんだよいきなり」
「ほら、あそこ」
うっかり見入っていたので急なの声で我に返った。柄にもなく心臓がバクバクとしている。
が指した先は夜の闇。その中で儚げに点滅する仄かな光が一つ、また一つと増えていく。
懐かしい記憶が蘇り、佐助は暗闇の中の光に釘付けになった。幼い頃に見た幽かな光は荒んだ心を癒してくれる。あの時の純粋な気持ちが戻って来たような気がして言葉が出ない。
どれくらいの間沈黙してのいただろうか。ゆっくり少しずつ増えていった光はあちこちに飛び交い、それをじっと見つめている佐助の横では慈しむように微笑んだ。
「佐助は前に兄上から蛍を見せてもらったのよね?」
「あー、そんなこともあったかな」
「喜んでいたと兄上が言っていたから蛍が好きなのかと思って」
「……まぁ、別に嫌いじゃねーけど」
ほらほら本当は好きなんでしょう、と言われているような気がして、つい天邪鬼な答え方になってしまった。しかしそれすら知られてしまっているのか、隣にいるの笑みは絶えない。
「……あんたって実は一番父親似なのかもな」
「本当?ありがとう。嬉しいわ」
「別に褒めてるわけじゃないんだけど」
「尊敬する父上に似ていると言われるのは嬉しいことよ。私が男子だったら父上のようになって兄上達を支えたかったもの」
「父上のように、ね……」
皮肉の一つでも返せたら良かったのだが、佐助の目に映る光がそれを引きとめた。他の感情が邪魔をしているのを蛍が浄化してくれるように感じた。
せっかくこの景色を見ているのに、ここで自らの思考のせいで綺麗な思い出を汚すのは馬鹿らしい。
内に抱えている物が溢れないように別のことを考えることにした。そもそもこんな思いをすることになったのは佐助自身の発言のせいである。何故が「もし自分が男子だったら」なんて言い出したかは見当もつかないが、それこそ考えても無駄な話だ。
やっぱり似てない、と自分の発言を撤回するべく口を開いたが、褒められたと思っているらしいを見てその気が失せた。佐助の中の何かが邪魔をしたのだ。
「父上もじじ様に似てきたわ。兄上達もそうなっていくのでしょうね」
「そういうもんなんじゃね。男だし」
「そうよね。見た目は私より兄上達の方が父上に似てると思うの。私と姉上は母上似かしら」
「あと数年したらあんたも姉さんみたいになるんじゃない?まあまあ似てるし」
「佐助は本当によく姉上を見ているのね」
「……はぁ!?そういうわけじゃねーよ!」
「姉上は美人だもの。その気持ちは分かるわ」
「だから違うっつの!」
自慢の姉を褒められたと思っているらしいはうんうんと頷くばかりで、佐助の否定の言葉は全て照れ隠しだと思っているらしい。くのいちのようにからかってくるのも癪だが、のように勝手に納得して自己完結されるのも困りものだ。
不意にが水の中から脚を引き上げた。その動作に再びぎょっとしてなるべく視界に入れないようにしたがあまり意味をなさなかった。捉えてしまった脚は水気を帯びているせいか、より一層艶めかしく見えて目のやり場に困る。
「……さてと、そろそろ帰りましょうか」
「ちょっと待て。そのまま帰るつもりかよ?」
「ん、脚のこと?手拭いを忘れてしまったからこのままでいいわ」
立ち上がり、下ろした小袖の裾は脚についた水気を吸ってはくれるが、このまま足袋や草履を履くと悲惨なことになってしまう。それらは履かずに裸足で戻ると言うのだ。屋敷に着く頃には足が泥だらけになるどころか怪我の一つや二つ、もしくはそれ以上できてしまうかもしれない。
流石にそれはないだろうと、佐助は本日何度目か分からないため息を吐いた。
「夜道を裸足で歩くとか馬鹿じゃねーの。……仕方ねーな、ちゃんと捕まってろよ」
言うが早いか、の身体がふわりと浮き上がり、唐突な浮遊感に思わずきゃっと小さな悲鳴が漏れた。抱き上げられていると理解した時には佐助はもう歩き出していた。
子どもの頃、信之や幸村に背負ってもらったことを思い出したが、それとは違う感覚のせいかいつになく身体が強張ってしまう。その緊張が佐助にも伝わったが彼は敢えて何も言わなかった。
「お、重くはありませんか」
「別に」
こんな風に運ばれるのは初めてなので、落ちてしまわないように慌てて佐助の首に手を回した。
ぶっきらぼうな返事が本心を語っているかは分からず、本当は重く感じているのではないかと不安になる。
しかし流石は幸村の忍と言うべきか、を抱える腕が下がったり歩みが遅くなったりはしなかった。背も体格も兄達に比べて小柄な方であるのに、こうして軽々と抱き上げている様はやはり男の人なのだなと実感する。
「……さっきの話に戻るけど、やっぱり私は女子に生まれて良かったと思ってるわ」
「ふーん。何で?」
「女子じゃなかったら佐助はこうして手助けしてくれなかったでしょうから」
「何それ。どういう意味だよ」
「女子の特権……いいえ、私の特権ということよ」
ますます意味が分からない。わざと濁しているのが策か何かだと言うのなら、流石は昌幸の娘だと言わざるを得ない。それは決して賞賛の言葉ではないが、なら大喜びするのだろう。色々と癪だが、嬉しいと喜んだ先程の顔を思い出すと言葉にするのも悪くないかもしれない。
言ってみようかと思った矢先、心安らいだようにが頭を預けてきたので、今度は佐助の方が強張ってしまった。喉まで出かかっていた言葉は止まってしまい、代わりに心の臓が口から飛び出そうになった。