与えられた長持の中を定期的に覗くのがの習慣だ。多く入っていないからこそ、そこにある物達を確認しやすい。
元から持っていた物、貰った物、それから普段使っている物の順に重なっている。それらを取り出して畳に並べ、それが終わると何故こんなことをしたのだろうと思いまた戻す。変な習慣だと思いながらも暇ができるとついやってしまう。
たまには眺めるのもいいだろうかと散乱した私物をじっと見てみる。しかしやっぱり楽しいこととは到底思えず、片付けようと思い立った時。
この静かでゆったりとした歩き方は知っている。そのまま待っていると、換気のために開けていた襖から隆景がひょっこり顔を出した。
「さん、一緒にお茶でもいかがですか?」
「いいですね。今行きますからちょっと待ってて下さい」
畳の上に散らばっていた私物を片付け始めると、律儀に隆景はその場で待っていてくれた。向こうで待っていてという意味で言ったのだが、片付けはすぐに終わるだろうから構わない。
服やら本やらを畳んで風呂敷で包み長持の定位置へ戻す。沢山あった教科書やら本やらを戻そうとした時、普段穏やかな目をしている隆景が目を見開き、ある本に釘付けになった。
「これは……!」
「ん?あぁ、前にもそれ見せませんでしたっけ。ここに来たばかりの時」
「そういえばそうでしたね」
「本を自分で選んで訳して読め、って言われて借りたんです」
図書館で借りた本が今こんなところにある。返却期限はとっくに過ぎてしまっている気がするが仕方がない。しかも半分くらいしか読んでいない。もう読む機会もないかもな、と思っても寂しくはなかった。
隆景はその本を手放さず一枚一枚ページをめくっている。英語で書かれているので読んではいないだろうが、彼が本を手にするとじっくり読んでいるかのように見えるから不思議だ。本当に書物が好きなのだなと思うのは、その丁寧な所作だったり文字を目で追う様子だったり色々だ。隆景ほど本を読まないだが、彼のそういうところが好きだった。
「異国の文字は不思議ですね」
「全然違いますもんね。だけど私はこの時代の字の方が不思議です」
「そう言えば、ミミズのようだと言っていましたね」
隆景が丁寧に字を教えてくれたので辛うじて、本当に辛うじて読めるようになった、と思う。自分が書けるかどうかは別として。
パラパラと本をめくっている隆景は恍惚とした表情だ。ところどころにある挿絵もじっくり見てまためくりだす。邪魔をしないようには他の物を片付けた。
長持の蓋を閉めて振り返ると隆景はまだ本に夢中になっている。名前を読んで「終わりましたよ」と言うとやっと顔を上げた。うっとりした笑みを浮かべている。それから一拍おいて突拍子も無いことを宣った。
「ちょうど文字が切れそうなんです。読み聞かせてくれませんか?」
薬が切れそう、のような危ない響きを感じた。前にも薬の中毒者のようなことを言って苦しみもがいていた。王子のような見た目なのに、見かけによらず危ない人なのかもしれないと感じた瞬間だった。
古文も英語も不得手だが理数が得意かと言われるとそうでもない。全てにおいて平均的な学力しかないにとって隆景の申し出は難易度が高すぎる。こんなことなら原書ではなく絵本を借りておけば良かった。
「隆景さんは読書が好きなんじゃなかったっけ」
「好きですよ。ですがこれは流石に読めないのでさんに読んでもらうしかありません。それだって読書になるでしょう?」
「読書っていうか朗読だけど……」
「良いではありませんか。貴方がどんな風に語ってくれるのか、それも朗読の醍醐味ですね」
わざと言っているのかそうではないのか見分けられない。しかし恐らく素で言っているのだろう。醍醐味って何だ、と心の中で突っ込みを入れた。
現代文や英語の授業の光景が蘇る。音読してと先生に言われて席を立って読むが、読み違えたり訳せなかったりするあの記憶。あんな調子で隆景に読んで聞かせるなんて失礼千万ではないだろうか。
「よ、読めない。英語読めないです」
「それを習っていたのでは?前に教えてくれたでしょう」
「う……得意かどうかはまた別の問題で」
「なるほど。では頑張ってみましょうか」
「えっ」
そこは「それなら仕方ないですね」と言って諦めるところではないのかと唖然とした。はっきり無理だと言わない自分が悪いと分かっている。しかしやんわり優しく諭して導いてくれるような隆景の口調には敵わないのだ。スパルタ教師のようでいてくれた方がまだ良かったのかもしれない。
加えてこの笑顔。本当に期待してくれているのかそうでないのかは怖いので知りたくないが、がっかりした顔にはさせたくなかった。
「……多分全部は読めないから、一部省略してもいいですか?」
「構いませんよ。ありがとうございます」
ぱあっと更に隆景の笑顔が花開く。お茶をする約束は叶いそうにないと悟った。
ちょっと待って下さいね、と言ってどんなことが書いてあったか思い出しながら読み返す。せめて読み終えた分くらいはきちんと話したい。こういうところで真面目を発揮するよりも授業でそうするべきだったと後悔した。
急いで本の概要を飲み込もうとする必死なの隣で、隆景はこっそり顔を綻ばせた。
読んでいる途中で何度も何度も隆景の様子を伺った。あまりにも酷いので落胆させてしまったのではないかと不安だったが、隆景は一度も嫌そうな顔をすることなかった。それどころか「なんとそれは驚きです」とか「それはどういうものですか」とか訊ねてくるものだから、その度に朗読は中断された。
全部朗読したわけではないからそんなに時間はかかっていないはずだ。しかし窓の外を見るまでもなく、射し込んだ夕陽が部屋を柔らかく照らしている。あれからかなり時間が経っていた。
「不思議なお話ですね。夢なのか現実なのか分からなくなってしまいます」
「確かに。私は子どもの時から全部夢だったんじゃないかと思ってました」
「おや、意外ですね」
「そうですか?じゃあ隆景さんは現実だった派?」
「そういう派閥があるのですか……」
むしろ隆景こそ現実的に考えそうなものだが、に同調しないということは違う考えなのかもしれない。
異国の物語だからより不思議に思うのだろうか。古事記や源氏物語も似たようなものじゃないか、と口が滑るところだった。創作を一括りにしたら失礼かもしれないと言うより、また危ない隆景に変貌しそうだという懸念である。
もう既に危なくなってきている隆景は、はぁと嬉しそうにため息を吐いた。
「人の発想には驚かされます。こんな物語を創り出すことができるのは素晴らしい」
「本当は細かいところまで読めたら良かったんですけど……」
「でも最後まで読んでくれたでしょう?見込んだ通り、さんは頑張ってくれました。ありがとうございます」
偉い偉い、と褒める様は理想の先生そのものだ。褒めて伸ばすような接し方が途方もなく嬉しくもあり、照れくさくもある。少し子ども扱いされている気がするのだけが不満ではあるが。
挿絵のページでめくる手を止めた隆景はしげしげとそれを見つめ、その次にを見た。
「朗読してもらっている間、この少女がさんに重なりました」
「私?」
「はい。不思議の国へ迷い込んだのも、見たことのない人に会ったのも似ているでしょう?」
「そう言われるとは思わなかった……」
「だから私の頭の中ではずっと、さんが冒険している姿が浮かんでいたんですよ」
たまに目を瞑って微笑みながら耳を傾けていたのはそれだったのだろう。まさか主人公と同じ服を着せられた自分を想像していたりして、とは恥ずかしくて言えなかった。隆景ならあり得そうだからだ。
が不思議の国へ迷い込んだと、隆景がそう言えば詩的な響きを感じる。けれど流石にそれは美化しすぎだ。
「有栖が兎の穴に落ちたように、貴方も長持の中に落ちてしまうのでは……と想像してしまいました」
「そんなこと言わないで下さいよ。怖くて開けられなくなっちゃう」
想像するとそれはそれで面白い。言われて気がついたが、人が一人くらい入ることができそうな長持は棺桶のように見える。異次元や異世界と言うよりあの世へ繋がってしまいそうな気がした。それの方が恐ろしい。
「さんはよく長持の中を覗き込みますが、それはやはり、帰りたいからですか?」
「ん?どういう意味ですか?」
「いえ、その……私物を床に広げてぼんやりしているのをたまに見かけるものですから、故郷を想っているのかと思いまして……」
申し訳なさそうな顔をしているのはこっそりその姿を見ていたからなのだろう。見られても困ることはなかったのだが遠慮していたらしい。
「うーん、なんだろうな。何か理由があるから長持の中身をひっくり返しちゃうのかな。自分でもよく分からなくて」
人と関わってそれなりに忙しく毎日を過ごしているから、そこまで故郷に未練がない。毎日隆景は時間を割いて話し相手になってくれるし、が何かに失敗して迷惑をかけてしまう女中達も優しく接してくれる。だから寂しくはない。ただそれが、長持をひっくり返すことに繋がるのかどうかまでは分からない。
「いきなりどうしたんですか?」
「先程も言った通り、さんを少女に重ねてしまったので、貴方もいつか夢から覚めてしまうのかと思ったのですよ」
「わぁ、なんだかすごく素敵な響きですね、それ」
隆景の柔らかい声と例え方に心惹かれた。けれど少し寂しそうに笑った隆景を見て慌てて弁解した。
「あ、そうだったらいいと思って言ったわけじゃなくて、なんかこう、幻想的な感じがしてつい……」
「さんらしいです。とりあえず、褒められたと受け取ることにしましょう」
一応褒め言葉ではあるが、なんだか申し訳なくなった。本来の思惑とは違う方に受け取られた気がする。ごめんなさいと謝った時、ちょうど逆光で隆景の顔がよく見えなかった。夕陽を遮る一瞬だけ見たその顔は整然としていた。
「ここにいる間、できる限り寂しい思いはさせないように努めます」
「えっ、そんな、全然寂しくないですよ!さっきのは別に本音じゃなくって」
「心と体は時に反発し合うこともあるでしょう?さんがそう思っていなくても体が勝手に働いてしまうのかもしれません」
まるで病院の先生のようなことを言う。隆景が言うと本当にそうであるかのように聞こえ、そうではないことまで正しいことのように思えてくる。今この状況では咄嗟の判断ができない。
「……なんて、もっともらしいことを言いましたが、夢なら覚めないで欲しいと思ってしまいます」
「お、おお……隆景さん、すごいこと言いますね」
「不思議なもので、言う機会を伺っているうちに、なかったはずの勇気も湧いてくるんです。……好きなだけここにいて下さいね」
更にすごいことを言っているとは思っていないようだ。今までなかったらしい勇気は充分ここで発揮されている。長い間葛藤していたとしたら、と思うと遠慮しにくくなってしまった。
かと言って、うんと頷いてしまえば一生甘えてしまいそうな気がする。常日頃から王子のようだと思っていた相手にそんなことを言われては堪らない。嬉しいことは嬉しい。しかしそれでは相手が隆景ということもあり堕落確実だ。
今度はが葛藤する。一方、隆景はまた本をめくり始めて喜々としてページを指さしてきた。
「ところでこの有栖という少女ですが……」
「さっきから気になってたけど隆景さん、なんか発音違う……と、とりあえず休憩しません?お茶もらってきます!」
これ幸いと抜け出す口実ができた。お茶はともかく頭を冷やさなければ。正気に戻れ自分、とは自分に暗示をかける。それから返事も待たずに部屋を飛び出した。
あっという間のの行動に、呆気にとられた隆景だけが部屋に残された。途端に静かになった部屋は、元から物が少ないということもあり更に広く感じる。奥にある長持だけが存在感を放っていた。あの中にの世界が広がっている。その一点を見つめる隆景の目には様々な感情が宿っていた。
物語とは良くも悪くも読み手に影響を与えてくれるものだ。それをどう受け取りどう考えるのかが好きであり得意でもあった。しかし一度聞いたり読んだりすると頭から離れないのが難点かもしれない。活字中毒の隆景は初めてそんなことを思った。
「私は一体何を……」
かぶりを振って思い浮かんだ案を却下した。あの長持の蓋に錠をかけてしまえば、という強引な手段は隆景の本意ではない。一瞬でも思い浮かべてしまったことを後悔した。もしかしなくても、自分は卑怯な手でを引き止めようとしている。
無意識のうちに、隆景は手にした異国の本の縁をなぞっていた。何か妙案はないだろうかと思案に耽る。思い浮かぶ案や動機が全て邪なものだという自覚はある。それでも繋ぎとめたいと思ってしまう。ずっとこの国で、自分の側に。