馬鹿につける妙薬



 少しだけなら、と口をつけると案外いける。嫁入り前の娘がそんなに酒を嗜んでどうすると昌幸に止められたことがあった。しかしその昌幸も珍しく酒を楽しんでいる。隅で酒をすする末娘の様子には気が付かなかった。
 家臣の芸に目もくれず、は少しずつ酒の摂取量を増やしていく。美味そうに飲むでもなく一人淡々と酒を飲む姿は、謀を巡らす将のようだった。
 宴を楽しむ者達の間をすり抜けるように侍女達が膳を運ぶ。手伝いに行こうと思いはようやく酒器を置いた。自分が平らげた物と思われないよう、抜け出す際にごめんねと思いながら内記達家臣勢の側に持って行った。もう既に出来上がっているので、酒器が数本増えたところで誰も不思議には思わないだろう。

「手伝うわ」
「まぁ、ありがとうございます。すっかり忙しくなってしまって……」
「うふふ、父上達はまだ楽しまれるのでしょうね」

 仲のよい侍女達とお喋りをしながら皿を片付ける。料理を運びに行くと昌幸に怪しまれそうなので、調理場から動かずにいた方が得策だ。
 信之も幸村も酒はほどほどにしているのか元から強いのか、むしろ家臣を静止する側に回っている。二人とも酷く酔っている様子は見られなかった。それを見て静かに笑う昌幸は珍しく楽しそうだ。
 明るい場の空気が心地よいのか、手伝うことが少なくなってきたの瞼は重い。

「……なんだか眠くなってきたわ」
「お先に休まれた方がよろしいのでは?」
「そうしようかしら」
「ではついて参ります」
「ううん、一人で大丈夫。ありがとう」

 一応という形で昌幸に就寝する旨を伝えると、特に気にする様子もなくお休みと言った。
 そして濡れ縁を歩いて部屋へ、とはいかず、は履物を足にひっかけて庭を渡った。先程まで眠たそうにしていた顔はどこへやら、一転して多幸感にも似た気分で歩いていく。
 自室はどちらの方角だったかなと、きょろきょろ見渡した挙句に決めたのは正反対の方角だった。
 月の光の届かない闇に惹かれた。あそこには何があるのだろう。好奇心だけが高ぶり、自室からどんどん離れてしまう。ついに三の丸を出てしまいそうなところで、心許ないの肩を闇に紛れていた忍が捕らえた。

「待て待て待て。どこに行くつもりだ」
「うふふ、極楽へ」
「確かにそっちに片足突っ込んでる気がする……って、人の話聞けよ!」

 静止を無視して危険な足取りでどこかへ消えようとするの首根っこを捕まえた。つんのめって後ろへ倒れそうになったのを受け止める。

「少彦名神様にお礼を申し上げないと」
「は?」
「この御酒は我が御酒ならず〜酒の司〜……」
「何、頭ぶつけたの?」
「美味しいお酒をいただいてきました」
「ああ、道理で……」

 それでもなお歩いて行こうとするの腕をがっちり掴んだ。いやいやとふざけたように嫌がって笑うので、佐助の堪忍袋の緒が緩み始めた。
 こうなったら強制的に部屋に放り込んでくれよう。そして明日文句を言い続けてやる。これ以上何を言っても無駄と判断した佐助はそのままを横抱きにした。
 酒ではない微かな甘い香りが漂う。香の匂いなのかの匂いなのか、そんなことはどうでもいいし自分には関係ない。ひたすらそう思いこむことにする。無心になれるほど出来た人間ではなかった。

「佐助は新緑の香りがしますね」

 は佐助の胸のあたりに鼻を寄せた。人の気も知らないでよくそんなことができるものだ。これは堪忍袋とかそういう問題ではないのかもしれない。色々なものを抑えながら佐助は無視を決め込んだ。
 こんなみっともない姿を他の連中に見せるわけにはいかない。見られたくない、の間違いかもしれない。幸いなことに部屋に辿り着くまで誰ともすれ違わなかった。

「ほら、着いたからさっさと寝ろよ」
「うん……その前に、そこを閉めないと」

 佐助の腕に抱えられたままは手を伸ばして部屋の入り口を閉めた。置いたらそのまま出て行くつもりなのに何故閉めたのか。
 静寂に包まれた部屋は佐助が畳を踏む音しか聞こえない。きちんと敷かれている布団までを運び、床に下ろすとようやく体を離してくれた。と思いきや、途端にの頭がぐらぐらと揺れる。
 ふらっとしたかと思えばそのまま佐助にもたれかかるように倒れてきた。慌てて片手でを支え、もう片方の手を床につく。
 すぐに離れてくれるかと思ったのににその気配はない。離すどころか、大事なものを引き寄せるように佐助の背に手を回した。
 これはまずい。誰かに見られたら切腹どころではない。佐助は武士ではないから切腹ではなく斬首という可能性の方が高い。こんなことで死ぬなんて屈辱だ。そして同時にふわりと香るあの匂い。あらゆる嫌な予感を感じて佐助の背中に冷や汗が流れた。

「馬鹿!離せ!」
「いやです。離したらどこかに行ってしまうでしょ?」
「当たり前だろ!」
「あんまり大きな声を出すと誰か来てしまうかも」

 別人のような妖しい声の忠告は最早脅しである。誰のせいでこんなことになっているのだと睨みつけてもは怯まなかった。
 それは当然のこと。こんな暗がりだから夜目の利かないに佐助の顔は判別できない。佐助がどういう感情を自分に向けているのか知る術は聴覚と嗅覚と触覚に頼るのみ。三つもあればには充分だ。

「そんなに強く掴まないで。痛い……」
「あんたが暴れるからだろ!」

 暴れると言うよりは滑らかに絡みついてくると言った方が正しい。暴れているのはむしろ佐助の方だ。
 突如痛いと涙声になって訴えられ、反射的に力を抜いてしまう。細い手首を誤って折ってしまいそうだ。自分とに対して怒りと不安が入り混じる。わざとだろうがそうじゃなかろうが、佐助は気弱になるにとことん弱かった。
 それを好機と見たはすかさず佐助の首に手を回して体重をかける。今度ばかりは支えきれず、佐助は後ろに倒れてしまった。
 首のあたりですりすりと頬を寄せるはくすくす笑っている。普段のからは想像のできない行動に驚き、ぞわわ、とその感触に身体が熱を帯びた。
 髪の香りなのか肌の香りなのかこの際どうでもよい。どちらにせよ佐助を惑わすものに違いなかった。
 今までで一番近い距離でが囁く。

「佐助も一緒に休みましょう。たまには忍も休憩しないと」
「何馬鹿なこと言ってんだよ……いいから退けって」
「さっきから馬鹿馬鹿ひどい。でも、馬鹿でいいわ」

 肩から上だけ起き上がって佐助の顔を見下ろした。の動作はあまりにも自然でゆったりしている。それでもどこかぎこちなさを感じるのは元々の気質のせいだろうか。
 暗がりでも忍の目はよく効く。眠たそうなの表情はどこか寂しげでもあった。

「あんた、自分が何してるのか分かってる?」
「佐助と眠りたいの」
「……意味分かってんの?」

 その問いには答えず、ふふ、と妖しく笑った。お互いに眠るの意味を履き違えているのかもしれない。しかし誘惑しているようにしか見えないこれを、果たしてそう断言できようか。
 ゆっくりとの顔が近づいてくる。これは駄目だ、まずい。咄嗟に顔を背けて回避した。意外なことに、は無理やり正面を向かせようとはしなかった。
 所詮か弱い小娘が一人乗っているだけだ。実際に、佐助の肩を抑え込むの手は非力なものだ。力づくでどうにかすることだってできた。
 突き飛ばしてやればいい。
 拒絶したら泣くのかもしれない。
 そうすればきっと後悔してくれるはず。
 しかし本音を言えば自分の意思で退いてもらいたい。それが一番よい。そうでなければこの先ずっと、内に秘めた想いを抱え続けないといけない。佐助が無理矢理退かせたところで根本は解決しないのだ。
 期待も希望も何も要らない。それなのに、この家もも佐助にそれらを与え続ける。

「私に口吸いされるのは嫌?」
「嫌とか、そういう問題じゃ、ねえだろ……っ!」
「佐助が嫌ならやめる」

 目的を変更したらしい。今度はまた先程と同じように佐助の首辺りに顔を埋めた。抱き枕か何かと勘違いしていそうだ。
 の柔らかい髪が首や顎に当たってこそばゆい。この女は一体何を考えているのだ。苛立ちよりももっと大きな情性が押し寄せてくる。何より情けないのは自分の体と心が矛盾していることだった。
 せめて体勢を変えようとの腕を掴む。すると耳元にかかる吐息に交じり、熱っぽい声でが囁いた。

「嫌なら押し倒してくれてもいいのよ」

 あらゆる言葉に「嫌なら」を付け足しているのは佐助に逃げ道を残しているのだろう。
 一瞬だけそれを考えてみた。しかしはたと気付く。

「……いや、それ逆だろ!」
「なぁんだ、引っかかってくれると思ったのに……」

 そう言うわりにちっとも残念そうではない。今夜一番楽しそうには肩を揺らして笑った。
 この女、と今度は苛立ちが大きくなる。元より軽いの身体はいとも簡単に抑え込まれた。今までずっと暴れたり暴れられたりを繰り返していたせいか、衿元が乱れている。組み敷かれているの潤んだ目が暗闇の中できらりと光った。
 一度痛い目を見れば懲りるだろうか。
 乱れた衿元を強めにぐっと掴むとは小さく息を呑んだ。それでも佐助を止めようとはしない。それが余計に佐助が押し留めていたものに拍車をかけ、たまらず唇を噛みしめた。
 稚拙な計略に引っかかってしまったものだ。しかし佐助にはまだ、が何をしたいのか分からない。ゆっくりと衿から手を離し、悲壮が混じる声を絞り出した。

「ほんと、何なんだよあんた……」
「何が目的でこんな馬鹿なことを、って思っているのね」
「そういうところは鋭いよね。完全にいかれたのかと思った」

 騙して遊ぶつもりだったと言ってくれた方が楽だ。未練一つ残さないように猶予も与えないでほしい。
 しかしいつだっては期待を裏切ってくれる。作られたような妖しさが今この時だけ消えて、太陽の下にいるようないつもの温かい笑顔を浮かべた。

「佐助を止めたいのと、受け止めたいのと、その両方」

 表情に反してその言葉は佐助をぎくりとさせるものだった。暗闇で目が慣れて来たとは言え、この至近距離でも佐助の僅かな動揺はには感じ取れなかった。

「どちらに転ぼうが佐助は佐助。私が好きな佐助よ」

 両の手で佐助の顔を覆って笑う。忍相手に触れるような手つきとは思えないほど優しいものだった。
 もしも何を知っているのかと聞いたら馬鹿みたいに答えてくれるだろう。だが聞いてしまったらきっと佐助はを始末しなくてはならない。今夜だけで何度も恐ろしさを味わったが、一番恐れているのはそれに違いない。
 何を考えているのか分からないのは父親譲り。もしこれがそれとは関係ないことだとしたら。
 そうではない場合に辿り着くと、佐助にはある可能性が浮かんだ。自分に触れているこの女がもしではなかったとしたら。それを悟られぬようにやや呆れた表情で、だが鋭い目でを見下ろした。

「あんたまさか、真田の妹君に扮したどこかの間者じゃないよな」
「まぁ、どうしてそう思うの?」
「例え酒のせいだとしても人が変わりすぎだろ」
「私、疑われているのね」
「そうとでも思わないとこんな状況……」

 納得できないだろ、という言葉はの口によって飲み込まれた。佐助の首に華奢な腕が縋るように絡みついてくる。ほのかな酒の味と柔らかい唇の感触に眩暈がしそうになった。
 腕は弱い力であるのに締められているように感じる。それが恐ろしいとは思わなかった。
 それよりもが違う人間になってしまったようで、そちらの方が恐ろしい。本当に別人なのではないかと思ったが、その手の者ならば気味が悪いくらいに舌でも入れてきそうなものだ。こんな馬鹿の一つ覚えみたいな不器用な口吸いなどしないだろう。
 無意識のうちに佐助はの下に敷いてある褥を握りしめていた。その手が褥からの肩や頬へと移動する。初めて触れたの頬は、想像していた以上に熱を帯びていた。
 余裕を見せたいとは思わない。ただの要求に真摯に応えてやりたかった。こちらから望むのはそれが終わってからでよい。
 だが本当は望んではいけないのだ。何度も何度もそれを頭の中で繰り返すと悲しみに胸が沁みていく。せめて現実を見ないようにと佐助は目を閉じての唇を受け入れた。唇が触れるだけの長い口づけだった。

「殺すなら、全部終わった後にして」

 唇が離れた途端、は懇願するような声で囁き、佐助の頭を抱き寄せた。
 どちらの佐助も好き、なんて嘘も方便だ。それが本当なら、こんな風に逃がさないとでも言うような抱擁はしないはずだ。佐助に言われた通り、は自身が馬鹿であると自覚している。
 全部終わった後に残るものなど何もない。分かっていながら否定できなかった。どっちも馬鹿だなと思いながら、佐助も縋るように抱きしめ返して再び唇を重ねた。