白磁の鶴


 雪の積もった山道を踏みしめながら歩を進め、気づけば随分遠くまで来てしまった。
 振り返ると吉継がここまで歩いてきた証として、一人分の足跡が雪の上の道しるべとなっている。
 行き先も告げずに出歩くなと朋輩が再三忠告するが、咎められる前に戻ればいい、というのが吉継の結論だった。
 しかし薄い羽織だけではどうにも肌寒い。晴れているのが幸いだが、いつまた雪が散るか分からない。そろそろ引き返そうかと立ち止まり、空を見上げた時だった。
 風も殆どないのに木々がざわめく音がした。葉も枯れて枝に雪が積もるだけの季節なので正確にはそれは間違いであるのだが、吉継は音を頼りにその方向へ歩いて行った。
 そしてあまり遠くへ行かないうちにその正体を知ることとなる。小さな鶴が雪の中で弱々しく鳴いていた。

「怪我をしているのか」

 罠に挟まれた右脚から流れる血が辺りの雪を赤く染めていた。抵抗する力もないのか、吉継が近づいても大きく暴れはしなかったが、漏れる鳴き声がどうにも痛々しかった。
 死にかけているのかもしれない。ならばせめて罠だけでも外してやりたい。
 しかし驚かせてしまえば余計に足が罠に食い込んでしまう。
 細心の注意を払って吉継は鶴に近づき怖がらせないようにゆっくりと近づいた。鶴はただ悲しそうに、しくしく泣くように小さな声を漏らすだけだった。
 日が高い時間ではあるが真冬のため手がかじかむ。手から血が滲んだが、それでも吉継は罠を外すことに集中した。いつの間にか鶴は鳴き声も上げずに、円らな黒い目で静かに吉継を見つめていた。

 どれくらいの時が経ったのか、吉継も鶴も分からないほどに時間が過ぎた。
 ようやく罠を外した時、辺りの雪に染みた赤は更に濃くなっていた。鶴と吉継、どちらの血なのかは最早分からない。
 鶴はずりずりと足を引きずり体勢を整えると、白い羽を広げて飛び去って行った。見上げた空は眩しく、鶴の姿を追うことはできなかったが、ひらひらと降って来た一枚の羽が白い雪の上に同化するように落ちてきた。
 見送るつもりでしばらくその場で黄昏て、戻った頃にはもう日が傾いていた。
 指に傷を負い両手を赤く染めた吉継に朋輩は卒倒した。当の本人は夢でも見たような感覚でぼんやりしていたのだが、何も語らない吉継を不気味に思った者さえいた。
 初陣も経験していない幼く若い頃の記憶は、数年もしないうちに雪に埋もれるように朧げになっていった。






 それから幾星霜が過ぎ「そろそろ嫁を」と仕える秀吉に勧められる歳になった。そういう流れならばと受け入れる。
 秀吉が娶せたという女は雪深い国で育ったという。濡羽色の髪と対比する白い肌が印象的で、新雪を連想させた。
 春になったら祝言を挙げると聞き及んでいたが、何故この雪が積もった師走にわざわざ国を出て都までやって来たのだろうか。そんな無粋な質問を秀吉に投げかけるわけにもいかず、吉継とは二人で庭へ降りた。
 このように婚前に顔を合わせる異例とも言われる機会が設けられたのは、双方に気を遣ってのことだった。吉継がそれに気づいたのはが足を庇うように歩いていたからだ。

「足をどうした?」
「昔うっかり怪我をしてしまって、それからずっとこんな有様です」
「今でも痛むのか?」
「季節によっては……」

 こんな不自由な身であるから、の父親は長いこと娘を嫁がせることを躊躇っていた。娘の身を案じてのことなのか、嫁ぎ先に迷惑がかかることなのか、恐らくは後者だろうと当事者のは考えていた。

「都までの道のりは大変だったろう」
「私は籠を使いましたから、大変だったのは私を運んで峠を越えた者達です」

 自分でも気が付かないうちに吉継に悪い印象を与えようとしている。自分は欠陥品であり枷にしかならないという思いが無意識化にあるからだ。
 歩調をに合わせてはいたが、ただでさえ男女の歩幅には差が出る。その上ひょこひょこと後ろをついて歩くものだから更に距離は離れてしまう。
 歩みを止めてが隣に並ぶのを待ち、吉継は腕を彼女に差し出した。案の定よく分からないと言った顔では吉継の顔と腕を見比べた。

「俺の腕を取るといい」
「あ……申し訳ありません」
「すまない、どういう意味だろうか」
「よく兄からも歩みが遅いと言われたので、お心遣いが申し訳なくて」
「足が悪いのは誰のせいでもない。腕が嫌なら手でも構わないが」

 そんなつもりでは、とを困らせる言葉であった。それでも無言で腕を突き出してくるので、おずおずとその腕を取ることにした。
 哀れに思われることには慣れているが、向けられる側としてはあまり気持ちのよいものではない。
 哀れみにはそれに応えるだけの行動を、と思っているが、こうすることで吉継が満足したようにも見えない。これでよかったのだろうかとは自分の行動を顧みる。

「滑らないように気をつけた方がいい」
「はい」
「それでも転びそうになったら、その時は俺が下敷きになろう。安心するといい」
「はい……えっ?」

 冗談なのか本気なのか全く読めない。冗談ならともかく、本気だとしたら分かりましたと頷けるわけがない。
 そんな心配事を抱えながら歩くうちに、ついに吉継を下敷きにしてしまうとはこの時点で思いもしていなかった。






「後で参りますから、絶対に開けないで下さいね」

 と言われたのが最初の夜。拒んでいるわけではなく、支度があるのだという。
 皆まで言わなくとも吉継には理由が分かっていた。詮索はすまいと思っていても、傷の具合はあまり良くないのではないかと懸念を抱いた。
 杞憂で終われば良かったのだが、ある雪の日の晩、はなかなか戻って来なかった。
 どうしたものかと悩んだ末に探し歩く。しんしんと雪が降り床は冷たく、床が軋む音以外聞こえないほど静かな夜だ。しかし閉じられた部屋の向こうで人の気配を感じた。
 、と呼んでみると今度は息を飲む音がした。戸に手をかけた時「やめて」と聞こえたような気がしたが、結果的に開けたのは正解だった。
 転んだまま起き上がれなくなったようで、躓いたらしい薬箱の中身が床に散乱していた。両肩を持ち上げて起き上がらせた時、の体は驚くほど冷えていた。

「入らないでと言ったのに」

 家の者に火鉢を集めさせ、綿入れを羽織らせ白湯を飲ませた。ようやく二人だけになり落ち着かせたかと思えば、今度はしくしく泣き始めた。
 不謹慎だと自分を叱咤するも、泣いている姿がいつもより美しく見えてしまう。

「すまなかった」

 戸を開けたことに対してではなく泣かせてしまったことに対する謝罪だ。それが余計に悲しくてさめざめと泣いた。
 吉継は悪くない。何もかも、雨の季節や凍てつくような寒さの日に言うことを聞かなくなるこの足のせいだ。
 右の足首から脛にかけて残る傷はかなり大きく、肌が白いだけに悪目立ちしている。
 歩く時は引きずらないといけないし、長時間座れば苦痛になるし、転べば自力で起き上がれないほどに情けない。
 男にとって傷は武勲の証だが、女にとっては生きていく上での枷にしかならない。何より醜い。いくら周りが気にしないと言っても、本人にとっては何の慰めにもならない。
 一番見られたくなかった相手に見られてしまったから、悲しいやら悔しいやらで消えてしまいたい気分になった。

「痛むか?」
「少しだけ……」
「どれ」

 蝋燭の灯りしかない部屋で影がのそりと動き、の足を撫でた。
 吉継の唐突なこういう行動には遠慮がない。気遣ってのことだとしても心の準備ができていないので狼狽えてしまった。

「何をなさっているのですか」
「手当てだ」

 薬をつけて布を巻くというものではなく、文字通り手を当てているだけだ。吉継の手が触れている部分だけ熱っぽくなる。
 人の手とは不思議なもので、弱っている時ほど優しさを身近に感じて気分が楽になる。
 久しくその感覚を忘れていたような気がして、その場所からじんわりと熱が広がっていった。

「俺がまだ小姓だった頃、足に怪我を負った者を助けたことがある」
「そうなのですか」
「助けたと言ってもまともな手当てもしてやれなかった。酷い怪我だったから俺も気が動転していたのだと思う」
「吉継様が?」
「ああ」

 潤んだ目が丸くなる。いつの間にか涙は止まっていた。
 今でも正直何を考えているのか分からないことが多いというのに、そんな吉継が取り乱すことなどあるのだろうか。
 窮地に陥ったとしても吉継なら涼しい顔をしていそうなものだ。慌てる様を少し見てみたい気もするが、そんな時が訪れるのはこの世が滅亡する時くらいではないかとも思う。
 何にせよ、吉継がそこまで慌てたのは、よほど大切な相手だからなのだろうと、何も知らないが思うのは当然の流れである。

「その方は良くなったのですか?」
「分からない。元気でやっているといいが」

 こうしての怪我を見て久しぶりに思い出した程度の記憶だ。とは言え人生の中ではある意味貴重な出来事の一つと言えるのは間違いない。
 そんなことより、と今はその話は置いておくことにする。

「お前がなかなか戻らなかった時も、探しに行って転んでいるのを見た時も、駆け寄った時に冷えた体に触れた時も、今宵は気が動転してばかりで寿命が5年ほど縮んだ気分だ」
「……ええと」
「冗談などではない」

 ここまで吉継はずっと真顔を崩さず、声色にも感情の起伏を全く表さない。
 きっとこれでも吉継なりに緊張しているのだと思う。ただ常人と違い、淡々として冷静に見えるだけだ。感情が内に籠ってしまう気質なのだろうか。
 となると、もしかして叱られている?という結論に結びつく。
 父にも兄にも叱られたことはある。だが吉継のこれは似ているようで全く違う。
 不意に足元を撫でていた熱が離れて、手当てもこれまでかと思えば、吉継が膝でにじり寄って来た。蝋燭の火が揺らめき、部屋の影がまた動く。
 距離が近くなれば緊張で言葉少なになるはずが、生憎今はそうなるだけのときめきを持ち合わせていない。持っているはずがないのに、少しだけ意地の悪いことを言いたくなった。

「助けられた方に会えば縮んだ寿命が戻るかもしれませんよ」
「そこで自分が元に戻してやると言わないところがお前の美徳でもあり欠点でもある」
「私に美徳など……今でも吉継様に頼ってばかりなのに」
「そう思ってもらえるのは嬉しいが、充分とは言えないな。身も心も預けるくらいでないと」
「身も心も、ですか」

 視線がかち合い顔の距離が近づいていき、目を閉じて間もないうちに唇が重なった。
 つい先刻まで泣かせていた相手によくもまあこんなことを、と思われようが構わなかった。
 抱きしめたの背中が不自由な足よりも脆く感じて、そっと床に寝かしつけた。このまま眠らせた方がいいとも思えたが、吉継の袖を掴んだままの手は離してくれそうにない。
 蝋燭の火は静かに燃えている。微かに揺れた灯りの中で吉継は、かつて見たあの黒い眼差しと同じものをの中に見た。
 縮んだ寿命を戻してもらうには、もう少し睦言を交わした後でよい。