雨宿りのために佐吉は神社に駆け込んだ。
鳥居をくぐり拝殿に辿り着き、屋根のおかげでようやく雨が遮られた。そしてまともな参拝もできずに雨宿りをするのを詫びて両手を合わせた。
それからずっと空を眺めている。雨は止むどころかますます強くなってきた。
住職から聞いていたのでこの辺りに神社があるということは知っていた。実際に訪れてみると広々とした割りに質素な神社だった。
これでは夕方までに戻れるかどうか。軒下で雨の止む気配のない空を見上げうんざりした。足も裾も泥だらけだ。
道草を食うような子どもではないことを住職は承知しているはずだが、佐吉としては急な雨のせいで予定が狂ったことが許せないかった。
「あの……」
ざあざあと振る雨の外から響くような声だった。振り返ると拝殿の中に年端もいかぬ巫女装束の少女が佐吉を見下ろしていた。足音は聞こえなかったので、内心とても驚いている。
「そこは寒いでしょうから、中にお入りなさいと宮司様が」
佐吉よりもいくつか年下だろうか。初めて見る人間を前に興味津々といった顔をしている。しかしその口から出てきた言葉はその風体とは違い、妙に大人びたものだった。
驚きはしたが言われたことをすぐに理解し、それから佐吉はすぐに首を横に振った。
「いや、こんな姿ではそちらに迷惑がかかる。ここで十分だ」
「でもきっと風邪を引いてしまう。あなたがそのままだと世話になっている方々にも迷惑がかかってしまいますよ」
妙にはきはきとした物言い、そして思わぬ正論にぐうの音も出ない。
手に抱えた小包を雨から守ったため、佐吉の頭や履物はぐっしょり濡れてしまった。髪に至っては毛先からぽたぽたと雨水が零れ落ちている。
親切心はありがたいが、ただでさえ雨宿りをすることを躊躇するような清潔な神社だ。これ以上踏み込めば汚してしまう気がした。
激しい雨だがこういう天気は少し待っていればせいぜい小雨くらいにはなるだろうと思い、再び断ろうとした。
しかし何を思ったのか、少女は何かに気がついたように「そこで待っていて」と言い残して去って行った。
ぱたぱたと足音が遠ざかって行く。拝殿は奥行きがあるようだ。この辺りで人の気配が殆ど感じられないのはそのせいだろうか。雨の音が人の存在を掻き消していた。
かなり時が経ってから少女は再び姿を現した。
両手に桶を抱え、腕に手拭い何枚もを引っ掛けていた。先程より歩調がゆっくりなのは桶に水を溜めていたせいだ。
「考えがいたらなくて申し訳ありません。足を洗ってから中へどうぞ。濡れた御髪もこちらを使ってください」
そう言って少女が率先して佐吉の足を洗おうとするものだから慌ててそれを止めた。こうなってしまっては断るにも断れない。親切心だと思い素直に受け入れた方がいいのだろう。
水桶と手拭いを受け取り汚れを落としていく。急な雨に加え、びしょ濡れになってしまったものだから佐吉の気分は急降下していた。
この状態を少しでも改善できるのはありがたい。少女の言う通り到着は遅れてしまうが、住職に迷惑がかからずに済む方がいいに決まっている。
とは言え着物が水気を吸っているため次第に肌寒くなってきた。佐吉の唇や指先から血色が失われていく。
「温かいお茶をお持ちします。こちらへどうぞ」
「しかし……」
「この先の寺で世話になっているのでしょう。雨はしばらく降り止みそうにありませんから、もう少しここで雨宿りした方がよろしいかと思います」
「何?どうしてそんなことが言える?」
「え?うーん、えっと、そんな気がしたからです」
形式ばった喋り方が解けたのは番外な質問をしてしまったせいらしい。生まれついての習慣なのか仕込まれているのかは知らないが、佐吉としては子どもは子どもらしく年相応の喋り方をした方がよいと思った。そういう佐吉も充分子どもらしくない子どもである。
案内された部屋に着くなり「着物を乾かします」と言われて代わりの物を押し付けられた。寺小姓である自分がこのような袴を着るのは違和感がある。神職に就く人間以外が着ていいのかと問うと、これは宮司の昔の物らしい。
「神様も宮司様もそんなことで機嫌をそこねる方ではございません」
聞こえのよいことを言うものだ。暗に困っている人を放っておくほうがお怒りになる、とでも言っているようだった。
古いが清潔な袴に袖を通し終えて少し経った頃、障子の向こうから大人びた少女の声がした。茶を運んできた巫女は目の前の少女よりずっと歳上のはずだが、何故か少女の侍女のようにも見えた。
その巫女は佐吉の前に茶を出すと部屋から出て行った。部屋には少女と佐吉が残される。
「今のは……」
「姉巫女様です。お勤めがありますので、先に戻られました」
「お前はいいのか?」
「わたしはまだ幼いから、あまり手伝わせてもらえないのです」
眉を八の字にして残念そうに俯いた。暇だったということかと聞けば肯定も否定もしなかった。
「だが将来は先ほどの巫女殿のようになるのだろう。暇を持て余していていいのか?」
「いいえ。わたしは七つになる前に大きな神社へ移ります。確か名前は……ええと、忘れてしまいました」
子どもだとは思っていたが、佐吉が思っていたよりも幼かったことに驚いた。まだ七つにもなっていないのにあれこれ気を回す様には瞠目する。
巫女とは神社を移るものなのか。帰ったら住職に聞いてみようと佐吉は温かい茶を口から流し込んだ。
「ここは静かだな。宮司殿は?」
「奥で祈祷しています。ごめんなさい」
「は?何故謝るんだ」
「宮司様がおっしゃったと、軒先であなたに嘘を吐いてしまいました。本当は違います。でも先ほどお茶をもらった時に宮司様にお許しはいただいていますから安心してください」
少女はほとんど一息でそこまで喋り、はぁと最後に息をついた。
出会って少ししか経っていない相手だが、時々会話が噛み合わないような奇妙な感覚に陥るのは佐吉の気のせいではなかった。
話が通じないという意味での違和感ではない。例えるなら、少女が佐吉の数歩離れた場所から話しかけてくるような感覚だ。たが目の前にいるから不思議に感じる。
しかし所詮は子どもの言うことだ。適当にあしらっておくべきだろう。
「宮司殿はお前の父君なのか?」
「いいえ、四つの頃にここへ来ました」
「そうか……」
「神様のおも、おも?おぼ……」
「……思し召し?」
「そう、それ」
上手く言っているが要は亭のいい口減らしだろう。貧しい暮らしであれば致し方ないことだ。
「哀れと思わないでくれてありがとう」
恐怖とも違う、これは畏怖なのだろうか。心を読まれたようでぞっとした。しかし次に少女は「顔に出ています」と笑った。同じ寺小姓の兄弟子達からはそれが生意気だと言われるというのに。
「大人は皆かわいそうにと言いますが、わたしは何一つ不自由していませんし、巫女として誇りを持っています」
「子どものくせに随分立派なことを言うじゃないか」
「あなたも子どもではありませんか」
「お前と一緒にするな」
聞いているのかいないのか、少女は何も返さなかった。
部屋の小窓から見える外を眺めている。つられて佐吉も窓を見た。雨が滴る音ばかりが聞こえる。先ほどよりも雨脚は弱くなったような気がした。
窓を見たまま少女がぽつりと呟く。独り言のようにも聞こえた。
「先ほど、なぜ天気の具合が分かるのかと言いましたね」
「ああ」
「あれは神様が教えてくれたのです」
「は?」
「神様が教えてくれたから今日一日の景色が見えたのです」
こちらを向かない少女が別のものに見える。
その小さな口から紡がれる言葉に一体どんな力が宿っているのか。その目はどこを見ているのか。同じものを見てしまったら人は一体どうなってしまうのか。
しかしゆっくりと正面に戻った時には、その不可思議さはどこかへ吹き飛んでしまった。
小娘の虚言なんてくだらない。どうやらそういう気持ちが顔に出ていたらしい。その小娘は何故信じてもらえないのだと憤慨するのではなく、しゅんと萎んでしまっていた。
「やはりおかしいですよね。こんなことを言うのは……」
変とか変じゃないとか言う以前に、いきなりそんな話を切り出されても返答に困るのだ。おまけに、言ったことを後悔しているらしい目の前の少女の表情が、余計に佐吉の罪悪感を煽った。
どうして俺がこんなことを……と思いつつ、この少女の前では大人として振舞うことにした。
「お前は俺がそんなくだらんことで人を判断する人間だと思っているのか」
「人はみんな、自分と違うところがあると怖がったり忌み嫌ったりするから」
「あながち間違いではない、と言いたいところだが……雨宿りをさせてもらったことと、天気の変化を教えてくれたことに関しては、礼を言う。助かった」
佐吉としては事実に対してのみの礼を考えた言葉だった。そんなに難しいことは言っていないし、佐吉なりに子どもに対して言葉を選らんだつもりだったのだが、少女は目を丸くさせているだけだった。
聞いておきながらなんて間抜けな顔をするんだと言えば、間を空けてから少女は少しだけ笑った。
「今日のことは、他の人には内緒にしてくれますか?」
「ああ」
こんな話をしたところで馬鹿にされるのが落ちだ。佐吉自身、完全に信じているわけではない。
「絶対ですよ?」
「分かっている」
「神様の御前でも約束できますか?」
「しつこい」
度重なる念押しにいらいらしてくる。別にそこまでして初対面の、しかも自分より幼い子どもの内緒事に付き合いたいわけじゃない。と思ってしまうあたり、佐吉もまだまだ子どもである。
断ればまるでこちらが拗ねているみたいではないか……となると佐吉は素直に頷くしかなかった。
「……別に信じたわけではないのだよ」
「それでよいと思います。話を聞いてくれてありがとう。歳の近い子と話せたのは久しぶりです」
「おい待て。さっきから気になっていたが、お前は俺をいくつだと思っているんだ」
「十くらい?」
適当に言っているのではないかと思うほどに的外れな予想に佐吉は衝撃を受けた。もちろん悪い意味で。そんなに自分は幼く見られているなんて信じがたいし猛抗議したい。しかし呆然としていたせいか咄嗟に否定の言葉が出てこなかった。
ちょうどその時、少女の後ろの襖が少しだけ開かれ、巫女らしい女がそっと声をかけた。
「様、宮司様がお呼びですよ」
「はい。ただ今参ります」
確かにこの少女の名前を呼んだ。しかも様付けで。何処ぞの大名の娘のような扱いだ。
少女は正座をし直して恭しく佐吉に頭を下げた。本当に名家の娘のように見えてしまうから不思議である。
「それでは、わたしはこれにて失礼いたします。あとのことは姉巫女様に頼んでおきますので」
「ああ……」
「どうかお元気で。ええと……」
「佐吉だ」
佐吉様、と繰り返される。何が嬉しいのかにこにこと笑みが消えることはなかった。
そのまま去ろうとしている少女を引き留める。
「人に名を聞いておいて自分は名乗らないのか?」
「あ……ごめんなさい。といいます」
当然ながら姉巫女とやらが呼んだ名前と同じだ。
照れくさそうに名乗った少女はすぐに一変して最初と同じように畏まった。
「どうかあなたがこの先も健やかに過ごせますように。帰り道は足元にお気をつけて、佐吉様」
幼い巫女は笑顔ではあったが、窓の外を眺めていた時と同じような顔をしていた。その薄気味悪さを遮断するように静かに襖が閉まると、小さく廊下が軋む音が聞こえた。聞こえない足音が遠ざかるような気がした。
全く気が付かなかったが、もう雨の降る音は聞こえなくなっていた。窓の外を見ると、徐々に出てきた太陽の日差しが、ぽたぽたと木や屋根から垂れた雫を照らしていた。