初めて神社を訪れた時、御簾の向こうに巫女がいた。
ここへ来る者は皆、先に起こる不幸を回避するために巫女の言葉に耳を傾ける。
暫しの沈黙のあと、巫女は世間話のような些細なことを言った。神託でも何でもない、そこにいる女自身の言葉だった。
−−今日は雨が降っていなくて良かったですね。
顔が見えないのだから彼女がどういう気持ちで言ったのか、ただでさえ他人の感情の機微に疎い三成に分かるはずもない。
忘れていたと言えなかったのは意地か見栄か。何せあれから十年以上は時間が経っているのだ。
覚えているかと聞かれたわけでもないのに、珍しく三成は嘘を吐いた。この神社の噂を聞けば、それすら見抜かれていても不思議ではない。やっと彼女を思い出したのは、嘘を吐いたすぐ後だった。
それから何度かこの神社を訪れてはいるが、巫女が御簾から出てくる気配はない。
そして今日も僧兵が表に控える部屋に通された。やはり御簾の向こうから動く気配はない。
「そういえば、石田様はなんだか前より厳しい顔立ちになりましたね」
「余計なお世話だ。十年以上経てば人相も変わる」
「人相までは変わっていませんよ」
「ふん、見えていないのによく言えたものだな」
「見えています」
言い切られて三成は押し黙った。断言するからには本当にそうなのかもしれない。
ここは随分栄えた神社と言っても過言ではない。かつて幼いが暮らしていた神社とは桁違いの規模である。
どこの誰かは分からないが、とある大名の中にもここを頼った者がいると聞いたことがあった。だが政の類は見ることができないと断られたという。
あらゆるものを凌駕する力だと思っていたが「人を動かすのは人だけ」だと言ってはあっさり否定した。
「政も戦も、軍師の方々があれやこれやと策を巡らせるのでしょう。その速さに私が追い付けないのです」
には三成が見えているが、三成には彼女の輪郭しか見えない。そこにいるはずなのに、最初から存在していないような錯覚に陥る。
それでもたまに首を傾げたり頷いたりする。その度に後ろに纏めた髪がその方向へ流れる音がするので、そこにいるのだと少しだけ安心できる。
とは言え、彼女に縋る者達と違って三成にはに見てほしいことなどない。元はと言えば、ねねがこの神社に礼をするために、伴という名目で無理矢理連れてこられただけだった。
そのため、二人の会話にはかなりの頻度でねねが登場する。
「おねね様はお元気ですか?」
「あの方はいつも元気すぎるくらいだ」
それは良かった、というの声は微かに熱が込められていた。
ねねもと直接顔を合わせたことはないが、この神社に世話になった際に良くしてもらったと嬉しそうに話した。
女がたった一人で山を越える、ましてやこれから暗くなるのに、という憂慮でねねを引き留めた。ねねの素性を知らないのだからがそう思ったのも不思議ではない。
人は天災には決して敵わないから、ということを他の巫女を通じて伝えた。その日の夜に大雨が降り、川が氾濫した。
……という内容を無事に戻ったねねから聞いて、三成は幼い頃の自分を思い出した。
昔、は「足元に気を付けて」と言った。注意散漫だった自分のことも、もしかするとお見通しなのかもしれない。敢えて聞かれなかったのが幸いと思う他なかった。
「というか、お前には見えているだろう」
「誰かの行動によってすぐに違う結果になったりしますから」
昔と違って、とは言っても会ったのはあの神社で一度きりだったが、は曖昧な言い方をするようになった。
けれど、その次の言葉はやけにはっきりしていた。
「実は、次に石田様と会う時に言おうと思っていたことがあります」
改まった言い方は、まるで姿勢を正したかのような印象を受けた。声色に緊張が現れていて、三成の体を硬直させた。
直接顔を合わせていないのに「会っている」という表現は不思議だった、という理由もある。
「いつも言おうと何度も思っていたのに言いそびれてしまって……」
「言い訳はいい。早く言え」
「はい。もう私に会いに来なくて結構です、と言いたかったんです」
御簾を境に亀裂が入った瞬間だった。
どういう表情で言ったのか分からない。心の底から嫌がっているのかもしれない。
三成がどういう立場でここへ訪れているのかは知っているはずなのだ。
だが殆ど外との関わりがないせいで、三成に対してどれだけきつい言葉を投げつけてしまったのか知る由もなかった。
豊臣に目をかけられた者なら、その価値がどれほどのものか理解するはずだ。
ただ、いつもこの部屋から出てこない世間知らずのはその恩恵をよく分かっていない。三成にはその考えがすっかり抜け落ちていた。
お互いがお互いをよく知っているようで全く知らない。三成に何の反応もないので「しまった」と思ったは慌てて考えた。
「その、言葉が足りなかったようです。用件なら宮司様に、という意味で言いました」
「迷惑ならばはじめから言えば良かっただろう」
「そういうことではなく……」
「ふん。たった一言、来るなと言うだけだ。そんな簡単なこともできないのか」
考えよりも先に口が動く。後悔するのはいつでも物事が悪化した後だ。こうなってしまうと、何を言っても言葉に嫌味が含まれてしまう。
透かした御簾に見えるの輪郭は微動だにしない。謝ることも弁解することもしなかった。
またあの頃と同じように、どこか遠くを見ているような、違う世界を見ているような目をしているのだろうか。沈黙が表しているのはそういうことではないのか。
畏怖よりも気味の悪さが勝ってしまう。それなのに御簾をくぐってみたいという気持ちに駆られる。その矛盾を気づいているおかげで三成は自分を抑えることができた。それが良いことなのかどうかは別として、今この時点では助かったような気分でいられた。
大抵こういう発言で三成は周りの空気を悪くするのだが、ここではよく分からない。
それでも顔が見えないというのは相手の感情が伝わらないので、の言葉は更に拒絶を含んでいるように感じた。
「こうも頻繁に訪ねられると、見えるはずのものが見えなくなってしまいます」
人に会うと疲れて仕事に支障が出る、ということだろうか。時々の言っていることが理解できなくなるが、やはり来られると困るということなのだろう。
今まで聞かれなかっただけ幸いだが、心根でも疑問に思っているかもしれない。
何故会いに来るのか。それを聞かれても三成にも分からないのだ。
聞かれる前に他のことを話そうと思ったが、口下手な三成に気の利いた質問は浮かんでこない。
「お前と同じように、俺もお前に言おうと思っていたことがある」
すぐに分かる嘘を吐いたのはこれで二度目だ。
頭の悪いことをしたと、苦々しい表情がに見えないのは幸い……と思ったが見えているらしいので、敗北と言うべきかもしれない。
「……何か欲しい物はないか」
咄嗟に出た言葉だった。上ずっていないことだけが救いだ。
そんなことを考えたことはないし、話を続けようと頭の中で試行錯誤を重ねた結果だとしても、これはないだろうと自責の念に駆られた。
案の定、も反応に困っているようだった。彼女が想定外の問いかけに弱いことは三成も知っていたが、これは番外すぎる。答えが出てこなくても仕方がない。
どうしてあの流れからその言葉が出てくるのか自分でも不思議だった。だが言ってしまったからには今更忘れてくれとも言えない。
幸い、は質問の意味を問わなかった。じっくり時間をかけて、なんとか答えようとしているのが御簾越しに分かってしまう。その沈黙が気まずい三成は、膝の上に置いた拳をぎりぎりと握りしめてしまった。
「特に不自由はしておりませんが、ここでは手に入らない物が欲しいと思ったことはあります」
「それは?」
−−内緒にしてくれますか。
外にいる者や僧兵などの三成以外の存在に聴かれてしまわないように、と思うような小さな声を聞き取った。昔のような無邪気さもない言葉には、あの時と同じように彼女なりの真剣さが込められているのだろうか。
握りしめたままの三成の拳は、さらに力がこもって薄っすらと手のひらに血が滲んだ。