something sweet scent



 ごほごほと咳が出て、ついでに涙も出そうになった。早く現場についてくれと願っているのに、運悪く渋滞にはまってかれこれ30分経つ。
 窓を開けて換気したいが、このエリアは主によく分からない複数の店から煙が漂っている。外に漂うお香なんだか燻製なんだか判別のつかない緑と紫の煙は、見るからに人体に害悪であることが窺える。
 外もスモーク、中もスモーク。さっきから何度も咳をしているのに、隣に座る犯人には全くこちらを気遣う気配がない。
 これなら私が運転すれば良かった。ぶっ飛ばして頭打ち付けて気絶させてやるのに。

「ちょっと、いい加減やめてくれません?煙たいんですよ」
「俺の貴重な休憩時間を取り上げようってか?」
「休憩時間じゃなくてもいつもタバコ吸ってるじゃないですか」
「それはお前の気のせいだ。ただ咥えてるだけの時もあるんだよ」
「キャンディーでも咥えてたらいいんじゃないですか」
「タバコの味がしねえだろ」
「ニコチン中毒者か!」

 パッチでも貼ってろ!と言おうと思ったのに思い切り煙を吸い込んでしまった。げほげほと部下が咳をしても、警部補は悠々とまたタバコをふかし始めた。
 そもそも仕事中にタバコを吸うなと言いたい。言えば「じゃあ今はいいよな」と言い出すに決まっているから言えない。
 今は移動中であって休憩中ではないのだが、多忙な警部補には強く出られない。恐らく彼はそれを分かっているから適当にあしらっているのだ。

「絶対長生きしませんよ」
「お前な、それが上司に言う言葉かよ」
「いくらでも言いますよ。嫌ならせめて車乗ってる時くらいタバコはやめてくださいよ」
「はっ、嫌だね」
「うわっ!さ、最低……!」

 この男、そう言うなりわざわざ私に煙を吹きかけた。咄嗟に顔を背けたが、パワハラもいいところではないのか。煙たくて涙が出そうだ。
 下ろしたてのスーツじゃなくて良かったが、どちらにしても臭いが映るのだからほぼ毎日クリーニング通いだ。警部補ごと丸洗いしてほしい。
 早く帰って全部洗いたいな……と思う日に限って仕事が長引くのだ。このスモークまみれの通りを抜けた先で厄介なことになっていないことを願う。

「ああもう臭い……」
「お前、それ逆パワハラだぞ」
「どっちがですか!」






 腕時計を確認すると夜11時。日付が変わる前に帰れるのだから重畳だ。
 頭の角度を変える度にタバコの臭いが香水のように付き纏う。警部補より先に私が病気になったら絶対に訴えてやる。
 明日は非番じゃないけれど、酒でも買って帰ろうか……
 大通りを歩いていると、後ろから誰かにがっしりと両肩を掴まれた。悲鳴を上げるよりも先に体が反応してその両手を思い切り引っ張って投げた。現職の警察官なのだからこれくらいはお手の物だ。これぞ背負い投げ……を私流に少しアレンジを加えた技。
 ちょっとした乱闘程度ではこの街の住人は一瞥するのみだ。この程度で騒ぎにならずに済んで良かったが、たった今投げた銀髪の男は見覚えがある。
 壁に衝突したらしく、泣き言のような呻き声が聞こえたので、仕方なく盛大に吹っ飛ばされたザップに歩み寄った。

「何すんだよいきなり……」
「方が悪かったのよ。せめて声かけて」

 ぐす、と啜り泣きの音が聞こえた。え、この男、本当に泣いている……?
 ぼろぼろだったのは見間違いではなかった。服も顔も汚れているザップの死にかけた顔が、くんくんと鼻をひくつかせながら訝しげに歪んだ。

「お前いつからヘビースモーカーになったんだ?」
「なってない。でも副流煙吸いまくって寿命が10年は減った」
「あー、なるほどな」

 察したのか適当に言ったのか分からないが、ザップは再び死んだ顔に戻った。
 暗がりの中でふらふら歩いていたものだから、てっきり酒に呑まれて千鳥足になっているのだと思っていたのだが……

「……何、珍しく元気ないね」
「うぅっ、聞いてくれるかよぉ!」
「いや、いいわ」
「聞け!いや聞いてください!!」

 無視して行こうと思ったら縋りつかれた。ザップがみっともないのは割といつものことだが、今日はいつもに増してひどい。
 早く帰ってシャワーを浴びたいが、渋々立ち止まって事情を聞くと、ザップは何も言わずに持っていた袋から小さな箱を取り出した。その見た目だけでもそれが香水だと分かるのだが、ザップはご丁寧に箱から中の香水瓶まで取り出した。
 まだ新しい香水からは、一吹きもしていないのに甘い香りが漂う。昨日発売したばかりのものだ。

「ネットで見たよ、それ。新作だよね」
「プレゼントで持ってったら平手打ちくらった」
「まじか」

 どう見ても平手打ちで済んだ顔じゃない。少なくとも10回は上下左右から拳をくらったはずだが、指摘すると面倒くさいことになりそうなので話を合わせることにした。

「匂いが好みじゃなかったとか?」
「いや、他の女と鉢合わせして」
「うわ……」
「予定間違えたんだよ!今日はキャサリンとだと思ったらケイリーが来ちまってよ」
「色々突っ込みたいけど、安定のクズ加減だな」

 女の子に振られて落ち込むタマじゃないのは分かっていたが、想像の斜め上を行く発言に眩暈がした。同時にいつものザップで安心した自分が嫌になる。
 ザップが女の子のために買った香水は、お値段高めの限定品で、発売直後だからもう売り切れているだろう。

「この香水どうするの」
「それがよ、ぶっ飛ばされた時に若干ヒビ入っちまったんだよな。質屋に入れてもこれじゃ大した金にはならなさそうだしよ……」
「じゃあ私に頂戴」

 まさかそんなことを言われると思わなかったのだろう。萎びていたザップの顔が少しだけ生気を取り戻して間抜け面になっている。
 確かに私も、まさかそんなことが自分の口から出るとは思わなかった。香水の好み云々の問題ではなく、ザップのような男に物乞いするのは正直気が引ける。だが言ったもの勝ちだ。

「はぁ!?お前これいくらしたと思ってんだよ!?」
「オンラインストアだと2万ゼーロだったかな?じゃあ3割引きで買い取るよ」
「3割だぁ?そこは正規価格で買うって言えよな!つーかネットの方が安いのかよ……」
「じゃあいらない」
「なっ、諦め早えーよ!くそ、仕方ねーな……」

 今の発言からしてどうせろくでもない手を使って入手したのだろう。こんな街で商品をまともに買おうとする場合、確かに裏のルートを使った方が安いことはある。
 聞かないでおこうと思ったのにザップが勝手にぺらぺら喋ってくれたおかげで、違法の博打で当てたらしいことと、それまでに10万ほど使ったことを知った。仕事中じゃないので追及しないけれど、全ての犯人がこれくらい口が軽かったら苦労しないのに、と思わずにはいられなかった。
 香水を売ってくれたザップは不満そうだが、さっきよりは元気になったと思う。私に感謝してほしいという考えは傲慢ではないと思いたい。そしてちょっとだけ私も元気になった気がする。






「なんだこの匂いは……」

 警部補が眉を顰めたのを見て勝利を確信した。
 ザップから買い取った香水は、実は前からちょっと欲しいなと思っていた代物だ。あまり使う機会がないことを考えたらコスパが良くないと思って諦めていたのだが、いい機会を作ってくれた警部補に感謝したい。あれがなければザップから買い取ろうと思わなかった。
 早速リベンジを試みたが、これはいける、絶対いける。

「これから移動なんですから我慢して下さいね」

 嬉々として車に乗るのは初めてかもしれない。さぁさぁと警部補を車に押し込むと苦情の呻き声が聞こえたような気がした。気のせい気のせい。
 今日の運転係の後輩には先に謝っておいた。彼を巻き込んでしまうのは申し訳ないが「いい香りですね」と言ってくれた。お世辞でも充分嬉しいので、そんな優しい後輩には後でコーヒーを奢ろうと思う。
 乗って早々にいつものようにタバコを吸うかと思いきや、タブレット端末の資料に目を通し始めた。

「あれ、今日は吸わないんですか?」
「匂いが混ざるだろ」

 若干イライラしている気がする。よし、と警部補に見えない方の腕でガッツポーズをした。匂いに関して自覚はあるらしい。
 仕事中にあるまじき考えだが、せっかくならこの前のように渋滞してほしい。もっと苦しめ、と思う辺り私もこの街に大分毒されているのだろう。
 今日はこの前のスモーク地帯と違って、至って普通の通りを走っている。人類が多いこの辺りは、異界の色が比較的薄いように感じる。
 だが、やはりここはHLだ。元ニューヨークはスモークフリーがほとんどだったのに、今では歩きタバコや歩き葉巻や歩きドラッグの多いこと。お堅い職業に就きながら勤務中に吸ってる野郎もいるけれど。
 しかし期待したほどの反応は車に乗る前だけなのが納得いかない。普通の量しかつけてこなかったので仕方がないか、と思っていたのだが……
 タブレットから目を離さない警部補は思いついたかのように一言漏らした。

「うん、嫌いじゃない」
「はい?」
「悪くねえなって言ってんだよ」
「今回の事件のことですか?」
「その匂いだよ」

 期待と正反対の言葉に思わず警部補を見ると、遅れて彼は視線だけを私に流した。

「うっそだぁ……」
「何だてめーその顔は。せっかく褒めてんのに礼の一つも言えねえのか?」

 その不服そうな表情は決して褒めている人間がする顔じゃない。
 しかしこれで褒めているのなら、警部補が仕事の手柄以外で人を褒めたということだ。ないわけではないが大層珍しいことなので、明日はHLに槍でも降るのではないだろうか……例えておいて何だが、この街なら充分有り得そうだ。

「い、意外……絶対こういう匂い嫌いだと思ったのに」
「お前いっつも男物ばっかりつけてるだろ。あれよかマシだ」
「全然褒めてるように聞こえないです」
「お前の俺に対する普段の苦言に比べたら可愛いもんだろ?」

 にやっと警部補の白い歯が覗いた。光る三白眼が、この程度は嫌がらせにもならないと暗に言っているようなものだ。
 全身が燃えるように熱くなっていく。分かりやすく馬鹿にされた方がマシなレベルだ。
 上司であるから私より経験豊富だし、生意気な部下のあしらい方なんてお手の物だろう。格の違いを違う部分で思い知らされると最早死にたくなる。殺してくれ……

「ああでも、嫌いじゃないってのは本当だけどな。酷い匂いだったら車から放り出してるところだ。お前にしちゃいいセンスしてると思うぜ」

 そう付け加えた警部補は再びタブレットに視線を戻し、それ以降は何も言わなかった。その横顔には微かに満足そうな笑みが浮かんでいた。
 というか、私でもそこまでするつもりはなかったのにさらっと酷いことを言わなかったか、この男。一言多いが、その気遣いがまた苦しい。南極バーに行って全身を氷漬けにしたいくらいに顔も体も熱い。
 車内は香水の香りで満たされている。つけすぎたわけではないのに、他の匂いはほとんど感じられなかった。
 結局、移動時だけでなく、警部補がタバコを吸っている姿は今日一日全く見ることはなかった。私が見ている限りの範囲ではあるが。
 完全敗北だ……それどころか心臓に何かが巣食っている感覚が続き、もやもやとして落ち着かない。恥ずかしさがどの方向に向いているのか自分でも分からない。仕事に関係ない誰か、チェインとか、とにかく誰かに話を聞いてもらって慰めてほしい。もしくは笑い飛ばしてほしい。
 私もザップのことを馬鹿にできない。……限定販売の香水、まだどこかで買えるだろうか。