体のだるさから風邪か流行り病かと疑われ、部屋から出ることも布団から出ることも許されなかった。
熱はないが食欲もない。かれこれ一月近く外に顔を出していない。
目を開けたり閉じたりを繰り返した。弱っている時、もう殆ど覚えていない家族に思いを馳せる。
父は優しい人だった。母は体が弱かった。弟も母に似て体が弱かった。今でも元気にやっているのだろうか。
今の自分の力では、彼らがどうなっているのかを見ることはできない。だからと言って人づてに頼んででも確かめようとも思わなかった。
それ以前から家族を見ようと思ったことはなかった。縁が切れたのだと思い、自分はあの家の人間ではなくなったのだと言い聞かせた。そのせいか、すぐに家族の顔を忘れることができた。
「誰かそこにいる?」
布団に横になったまま、どこかへ向けたわけでもなく声をかけた。
人々が畏怖の念を抱くのはの後ろにあるものだが、誰にも姿は見えない。
いつか自分に応えてくれるのではないかとずっと待っていた。だが待てども待てども反応はない。
当然ながら今回も期待した返事はなかった。代わりに答えたのは部屋の外にいた巫女だった。年端もいかない少女の舌足らずな返事が聞こえた。
「はい、なんでしょう」
「お水を持ってきてくれる?」
「かしこまりました」
軽い足音が遠ざかっていく。今のは本当に巫女だったのだろうか。確かめる手段はない。
ここが現世であると自分に言い聞かせるためには、誰かと話す他に手段がなかった。
生きているからこそ神仏に縋ることは珍しくない。だが、御簾の向こうから話しかけてくる相手はどちら側の存在なのか、はっきりとした確信を持てなかった。
たかが一枚、されど一枚。御簾は外と内、両側からの接触を阻む壁だった。
死者が見えるわけでもないし、ここが幽世ではないと分かっている。だが、どちらにも自分がいないように感じる気持ち悪さは年々酷くなるばかりだ。
加えて、ここしばらく調子が良くない。助けを求める人のためにも、自分を置いてくれる神社のためにも、どうしてか力を発揮できなかった。病にかかったことなどほとんどなかったのに、だるさのせいでますます自分の居場所が曖昧になる。
誰かの足音が近づいて来た。歩き方で男か女かを判断するのは得意だが、今聞こえる音は、まるで人間のものではないような−−
「様、入ってもええ?」
淑やかな京ことばに少し間を置いてから返事をした。おおきに、と言ってから阿国は部屋へ入ってきた。
湯呑が乗った盆を持っているのは、先程返事をした子から恐らくやんわりと引き継いだのだろう。阿国の穏やかな笑みのおかげか、体の強張りが解けていくように感じた。
会うのはいつ以来だろうか。神社以外の人間と直接顔を合わせる機会は皆無に等しいため、阿国と会った記憶はしっかり残っているはずなのだ。それなのに、最後に会ったのはいつだったのかをいつも思い出せなくなる。
横になったままというのも失礼かと思い、体を起こした。戸を閉めた阿国はまじまじとを見つめている。
「それで宮司様、うちを呼んだのどすなぁ」
まだ何も言っていないのに、を見るなり納得したように頷いた。
ふらりと現れてはいつの間にかいなくなる阿国は、近いようで遠い存在だった。
「わざわざ出雲からいらっしゃったのですか?」
「さあ、どうやろなぁ」
ということは違うどこかへ寄ってからここへ来たということだ。行き先を当てさせて、当たってもはずれても最終的に土産を渡す無邪気さは、阿国がここを訪れる時の定番だった。
それに答えるだけの気力がにないことを彼女は分かっている。どうぞと渡してくれた水を受け取り、礼を言ってちびちびと飲み喉を潤した。
どんな条件が揃えば彼女と同じところへ行けるのだろう。乾いた喉が潤ったせいか、漠然とした疑問が自然に口から零れ落ちた。
「阿国さんは私には言わないのですね」
外に出たことがないので実際は見たことはないが、阿国が誘う相手は決まって彼女好みの人間らしい。きっと自分はそれに含まれていないのだろう。もしくは、他の何か……
よくここへ顔を出し、土産を持ってきてくれるのだから、自分に悪感情を持っているのではないと重々承知の上である。
それでも訊ねるのだから我ながら意地が悪い。だが阿国は嫌な顔一つしなかった。
「他のお方が嫌や言うて引き留めるからでけへんの。堪忍え」
「そんな気がしていました」
笑顔になれているか心配だったが、答えを聞くことができて概ね満足だ。
どんな姿が見えているのかを聞く勇気はなかった。人の姿をしているのか、化物のような姿をしているのか、聞いたところで何も変わらない。
もうこの話は止めよう。充分周りに苦労をかけているのに、客人である阿国にまで気遣わせるのはあまりにも失礼だ。
だが阿国は夢見るような表情でため息を吐いた。
「せやけど不思議やなぁ」
「何がでしょうか?」
「全くおんなじこと訊かれるなんて、素敵やわぁ」
うふふと笑った阿国に合わせて笑おうとしたが、今度はできなかった。
誰に、という野暮は言うまいと無言を貫いた。ここへ来る前、何故彼女がそこへ行ったのかを考えると、きりきりと胸が痛む。その理由は分からない。
どこから出したのか、阿国は綺麗な布にくるまれた包みをに渡した。
受け取った物の感触は硬い。結び目に挟まれた文を抜き取り、読むために広げた。
字は差出人の性格を表しているように見える。それを汚さず皺もつけず運んだ阿国の気配りも見て取れた。宮司や僧兵に見つからずに済んだのは流石というべきだろうか。
美しい字が綴られていたが、始めの一文だけを読んでまた元通りに畳んだ。
「ありがとうございます。この方にもお礼を伝えていただけますか?」
「返事、書かへんの?」
「書きません」
「もう、いけず」
拗ねた顔だが咎める様子はない。送り主も同じ反応をするのだろうかと思い、苦笑いした。
布の結び目をほどくと、質素だが美しい短刀が現れた。袂に入れて隠せる大きさであることは送り主なりの粋な計らいなのだろうか。
膝の上に短刀を乗せ、俯いたまま目を閉じてみる。
あの雨の日から彼を思わない日はなかった。どうか健やかでありますようにと何度も祈り、良い人生を送れるようにと毎日願った。神仏に縋ったのはそれが初めてだった。
まだ雪が降る季節ではないが、外は秋めいてきた。閉じたはずの目は違うものを映して、赤く染まった景色が脳裏にはっきりと焼き付いた。
−−今年の秋はこんな景色なのか。抱いた感想は自分でも驚くほど淡泊だった。
再び目を開けるとその景色は消え失せ、阿国の顔と青い畳が目に映る。ここは現実だと、自分に認識させるかのような色の変わり様に何度も瞬きをしてしまう。
「阿国さん、そろそろ寒くなりますから、あまり長居するのはおすすめしませんよ」
もう殆ど見えない物見の力だが、どうせ終わりが近いなら、何かと世話を焼いてくれた阿国のために使いたい。
きっと次の桜を見ることは叶わないだろう。雨に濡れる紫陽花に触れることもできないだろう。生を感じさせない寒々とした季節に消えるのは、未練も一緒に冷えて消えてくれていいことなのかもしれない。
阿国の白い両の手がの左手を取った。長らく触れていないこの温かさは、確かに人のものだ。
「なぁんにも心配することあらしまへん」
終わりに近い人間に対して、きっと阿国はこんな風に語りかけるのだろう。
優しく諭す言い方は母のようであり姉のようでもあった。未だに見ることが叶わない神仏は、彼女のような姿をしているのかもしれない。そう思えるほどの慈悲を握られた手の温もりから感じ取った。