子羊と悪魔の密談



 今日も天気が悪いがそんなことは関係ない。庭の手入れをしてせっせと水をやったり手入れをしたり、そうしているうちに花は綺麗に咲いてくれる。天気よりも愛情の深さが成長を左右するに違いない。
 丘から見下ろせば碁盤のような街が見える。妙なことに、最近昼間でさえ空が暗い日が多い。
 台風でも来たら嫌だなぁ、という程度にしか思っていないが、少しくらい晴れている方が気分も清々しくなるだろう。寒いわけではないけれど、暗いと肌寒く感じる。
 家に戻ってお茶でもしようか。適当に済ませてしまってもいいのだが、せっかく一人きりでこの辺鄙な場所にいるのだから、時間をかけて豪華なお茶会にしてもいい。
 そんなことを考えながら庭を通り抜けようとした。私のこだわりで設置した小規模なテラスには、休憩用のテーブルと椅子、そしてこの天気だから一度も役に立ってはいないがガーデンパラソルがある。
 そこに見慣れたような、見慣れないような黒い人。さっきまではいなかったその人は優雅に手を振った。

「今日も元気そうで何よりじゃのう」

 白い肌、それ以外は全て黒。陰鬱とした天気の下でも彼女だけは美しく見えるのが不思議だ。
 足音もなく、気配もなく、いつの間にかこの庭に現れる。何度かそれを繰り返しているうちにすっかり慣れた。
 滅多に来ないお客様を迎えることが嬉しい。でも彼女は知らないうちに帰ってしまう。現れては消えて、その繰り返し。同じ年頃に見えてそう見えない、全てが矛盾した人だ。

「ああそうだ、土産を持ってきたぞ。が好きそうなものじゃ」

 細長い彼女の指がテーブルの上に載っていた風呂敷を解く。いかにも老舗風な店の箱には和菓子が綺麗に詰められていた。
 しばらくこういうお菓子を食べていなかったので宝箱に見えて仕方がない。すぐにお茶の用意をするねと言うと、彼女は返答の代わりに微笑んだ。
 台所に移動してお湯を沸かす。窓から見える外の景色は相変わらずだが、雨が降らないだけ感謝したい。
 せっかく彼女が来てくれたのに、雨が降っていたのでは外でお茶ができない。家に上げてもいいのだが、私の庭に佇む彼女を眺めていたいというのが本音なのだ。






「ねえ、本当に人間?」

 お菓子を食べてお茶を淹れ直した頃、ずっと不思議に思っていたことがつい口に出てしまった。
 薄っすら反応した彼女は黙ってお茶を飲んでいる。失礼な発言のせいで不愉快な思いをさせてしまっただろうか。しかし彼女はカップをソーサーに置くと、相変わらず微笑んだままだった。

「どういう意味か聞いても?」
「なんて言うか……雰囲気?人間にしておくには勿体ないというか……神々しいから?ごめん、分かんないや」

 自分で聞いたくせに理由を答えられない。それでも彼女は楽しそうに微笑んでいる。
 変な質問をしたのは私がほとんど人と関わらない生活をしているからなのかもしれない。この家はと言えば近くには山と墓地しかないし、私には友達もほとんどいない。
 ここを訪れる変わり者は彼女くらいだ。こんな生活をしているせいか、人間の雰囲気を忘れてしまいそうになるのだ。

「ごめんね変なこと言って」
「良い。面白い子は好きだよ」
「面白いかな」
「お主こそ、人間で在ることが勿体ない子じゃ」
「……ペットとか?」
「ふむ、それも良いかもしれぬ」

 楽しそうに笑っている彼女はこうして見ても普通の女子高生には見えない。この制服は見たことがある。どこかの有名なお嬢様学校だったはずだ。
 もしも彼女が名家のお嬢様だとしたら、今日に限らず私は相当な無礼を働いているに違いない。そうだ、お嬢様だから人間っぽくないというか、浮世離れした雰囲気なのかもしれない。
 それなら私も納得できるのだけれど、普通お嬢様はこんな場所に足を運ぶだろうか。世間知らずには見えないけれど、ちょっと変わったお嬢さん、ということにしていいのだろうか。私にとっては大切なお客様であることに変わりはないのだが……
 最後の一滴を飲み干した彼女が置いたカップが小さく音を立てた。指で口の端に残った水分を拭き取る仕草はどうしてか艶めかしい。いや、むしろこれは何かをいただく時の衝動、つまり舌なめずりをするような−−

「お主のような人間なら一生傍に置いてみたいものよ」

 一生、という言葉は思ったよりも重く感じられた。けれども彼女の柔らかい声のせいで案外いいものかもしれないとさえ思ってしまう。
 すっと伸びてきた彼女の白い手が私に触れるか触れないかの距離まで来たような……

 −−という辺りから記憶がない。指先でもいいから触れてみたかったが、それは叶わなかったのだろう。体に残る記憶に触れたという感触はない。
 知らないうちに彼女はまた消えてしまった。長い時間テーブルに突っ伏していた私の体は、立ち上がってほぐすように動かすと骨がバキバキと音を立てた。
 辺りを見渡しても灯りのない庭に人らしき姿は見えない。別れ際が思い出せないことも、不思議と寂しさを感じないのもいつものことだ。
 家に入ろう。テーブルの上の物を片付けようとしてほっとした。二人分あるティーセットも、少しずれた位置にある椅子も、彼女がここにいた痕跡なのだ。

「化かされた気分……」

 こんな独り言、彼女ならきっと笑ってくれるはずだ。
 この家の守り神だったらいいのにと何度思ったことだろう。今度彼女が来た時は、もう少しまともなおもてなしができますように。