高層ビルに併設されているカフェは交差点をちょうど見下ろせる位置にある。財布に優しい価格なので学生に人気だ。なので放課後には学生ばかり。それが嫌で最近はこうして昼間に来るようになってしまった。
私が制服姿でこの時間帯にいても誰も注意しない。ここはそういう街で、皆自分のことだけで精一杯だしとにかく忙しい。学校に行っていない学生なんて私の他にも沢山いる。
クリームがたっぷり乗っていたフロートは時間が経ってどろどろに溶けてしまった。中身が一向に減らないのは私があまり飲んでいないから。新作だから注文してみたのに、思っていたよりも美味しくなかった。
「お口に合わないみたいだね」
「うん。いまいち」
「新しいの買ってあげようか?」
「そういうのいいから」
いつもはここで一人で過ごすのだけれど、最近は隣のこのお兄さんといることが多い。ここで会ったら挨拶をして一緒に話すくらいの仲ではある。でもお互いは知らない。
私もお兄さんも黒髪だから、何かあったら「兄妹です」で逃れることはできる……か?顔立ちが違うから無理か。
初めて会ったのは2か月くらい前。このカフェで会ったわけではなく、道端で困っていそうな観光客がいたから声をかけた。それが偶然このお兄さんだっただけだ。
「あれからもう怪我してない?」
「してないよ。おかげさまで」
ほら、と彼が腕をまくって見せたそこには傷も何もない。薄っすら痕が残っているのかもしれないが、よく見てみようとは思わなかった。
あの日お兄さんは困っていた。というか怪我をしていたのだ。
目に見えて重症(彼にとってはそうじゃなかったらしい)だったので救急車を呼ぼうとしたのだが断られ、止むを得ず私が近くのドラッグストアから包帯や消毒液やらを買って下手くそなりに手当てをした。
喧嘩か何かに巻き込まれたのだろう。あまり関わりたくなかったので何も聞かなかったが、病院に行くように念を押した。ありがとうと笑顔を向けられて不安になったのはあれが初めてだった。
「旅行先で怪我するなんて散々だよね」
「本当にね。あの時は助かったよ」
ホットコーヒーを片手にカフェでくつろぐ姿は、旅行先のトラブルなんて全くなかったかのような余裕があった。
この国の城や仏閣に興味があって訪れたというお兄さんは、実に旅行者らしくない。見た目はもちろん、雰囲気がそんな感じ。でもこの国の人間のようにも見えない。
「何かお礼がしたいな」
「別にいいよ。いらない」
「飲み物奢られるのも嫌だもんね」
「懐柔されるみたいで嫌」
お兄さんにそんなつもりはないだろう。でもそれを受け取ってしまったら、自分で自分の頭の軽さを認めることになる。自分が認めなくても傍から見たらそういう図になってしまうのが嫌だった。
それでもお兄さんはまだ諦めない。横目で見ると、納得していないような顔をしていた。
「お金は足りてる?」
「大丈夫」
家を出て一人暮らしをする娘を心配する父親のような台詞が面白かった。
うちはお金持ちだから、なんて口が裂けても言わない。事実だけどこんな小娘が言っても嫌味だろうし、私のような弱い人間がそんな情報を漏らすのは危険だ。
「家に帰りたくないけど、そろそろ帰らないと駄目かも」
「帰りたくないなら帰れらなきゃいいのに」
「お父さんが出張から帰ってくるから」
友達の家に泊まっている、という嘘が通用するのはお母さんだけだ。日中学校に行ってないのはまだいい。でも夜も家にいないとなると怒られるのは確実だ。
ふーん、とお兄さんは興味があるんだかないんだか、曖昧な返事をした。適当だなと思ったが、意外なことに一応考え中だったらしい。「じゃあさ」と明るい調子で提案し始めた。
「どこか遠いところに逃げるっていうのはどう?」
「本気で言ってる?大人の言葉とは思えないね。私、未成年だよ」
「未成年なんて関係ない。行こうと思えばどこでも行けるし、欲しいと思えば何でも手に入れられるよ」
あまりにも現実味のない話をするので、呆れてついお兄さんの方に顔を向けた。無責任で軽薄な言葉のわりに表情はどこか真剣だ。笑みを浮かべていなければもっと説得力があったのに。
素行の悪い小娘に説教をしているわけじゃない。それどころか夢のような話だ。でも幸か不幸か私は夢と現実の違いを分かっている。
金で手に入れることができるものは意外と少ない。大抵の人は金さえあればと考えるのだろうが、金で埋まらないものなんていくらでもある。
お兄さんがそんなことも分からない人には見えないのだけれど、私が何も言っていない以上そう言うのも当然かもしれない。
「お父さん、お堅い仕事のお偉いさんなの。逃げても捕まっちゃう」
言おうか迷って初めて明かしてしまった。私にとって根が深いことでも、他人にとってはどうでもいいことなのに。
逃げた先に待ち受けていることが怖い。それを知っているのは経験があるからだ。思い出すだけで汗がじわりと滲む。水分を求めて目の前にある溶けてしまった不味いフロートで喉を潤した。
「ふうん。じゃあ君は家族さえいなければ自由になれるんだね」
「言い方があれなのは目を瞑るけど、そういうことかな」
「お母さんも嫌い?」
「わかんない」
「そっか」
心配しているように見えて心配していないのが分かったので少し笑ってしまった。これくらいの距離感がちょうどいい。
ビルから見下ろした先に目線を移すと、目の前のビルの大型ビジョンに「国宝盗まれる」というテロップが流れていた。パッと映ったのはこの国の中央にある観光客にも人気の大きな社だ。
「そういえばどこか観光した?」
「うん。色々回ったけど楽しかったよ」
きっともうすぐこの国を出るのだろう。そういう口調だった。そんなに悲しくないのは関係が浅すぎるせいだ。それでいい。
お兄さんはいつの間にかコーヒーを飲み終わっていた。私のフロートはまだ半分近くある。もう飲む気にはなれなかった。
「お礼は受け取ってくれなくていいから、ちょっとオレと一緒に来てほしいところがあるんだ」
「どこ?」
「この近くだし人も多いから大丈夫。変な場所じゃないよ」
勿体ぶるなぁと思ったけれど、お兄さんと会うのもこれで最後かもしれないし、それくらいなら……と了承した。
交差点を抜けて緑の多い並木道を歩いて、特に会話はしなかった。お兄さんは後ろを歩く私がはぐれていないか時々様子を見るだけだった。
連れてこられた古い社の前でお兄さんはようやく「ここだよ」と立ち止まった。
社に祀られている神様。この国ではあちこちに似たようなものがあるので、これといった珍しさはない。私の家の近くにもあるし、日常の風景の一部でもある。ここはそこそこ大きな社で、もうすぐ夏のお祭りがあるはずだ。
観光客らしい選択だな、と言うのはなんだか失礼な気がして心の中で呟くだけにした。
私達の他にも参拝客は沢山いた。それぞれどういう気持ちで参拝しているのかは知らないが、少なくとも私よりは尊敬の念を抱いているはずだ。この国の人間なのに、まともに社の説明もできない自分が少しだけ恥ずかしい。
「この国の神って少し独特だよね」
「そう?」
「一神教は多いけど、沢山神がいてそれをありがたいと思うなんて不思議だなぁって」
こういうことには興味があるのか。お兄さんの横顔に好奇心の色が浮かんでいる。
他国の人にはそう見えるというのが新鮮だった。私は考えたこともない。日常の風景に馴染んでいるもの、何かの祝い事で行くもの、お参りするものとしか捉えていなかった。
「神様なんて沢山いても、いい子の願い事しか叶えてくれないでしょ」
「いい子って例えばどんな子?」
「私みたいな子じゃない子」
「明快な答えだ」
でしょ、と得意げに返事をした。いい子は名前も国籍も知らない男とお茶をしたり簡単について行ったりしない。
ここに来たらすることは一つ。財布から小銭を取り出した。自分の分とお兄さんの分。押し付けるといいよと言われたけれど、これは私からの餞別のつもりだ。
受け取ったお兄さんは小銭を器用にくるくると手で弄んでいる。親指ではじいたかと思えば、落ちてきた小銭を手の甲で受け止めた。これからお賽銭に使うのにそんなことを……まぁいいか。
「拾う神あれば捨てる神ありって言うだろ」
「へぇ、お兄さん博識だね。この国の諺知ってるんだ」
「どこの国にも似たような諺があるんだ。君もいつか行ってごらん」
さっきとニュアンスが少しだけ違った。一瞬そう思ったけれど、きっと違いはない。お兄さんの言う「いつか」は私が自分で決めることなのだ。
「さ、お参りして行こう」
言われて参拝のマナーに従った。手を合わせて目を閉じても、神様へのお願いなんて思いつかない。お兄さんはどうなんだろうと、ちらりとだけ盗み見た。
彼は色々な意味でこの場に溶け込んでいなかった。観光客の一人であるからなのか、という理由だけでは納得できないような何かがある。単にイケメンだからとかそういうことではないのだが、私の語彙力だとこれが限界だ。
もう一度目を閉じて考えてみる。これから家に帰るにしても、いつもよりはまともであって欲しい。どうせなら自由になりたいけれど、高望みはしない。だからせめて−−
短くも長い参拝だった。お互い何事もなかったかのように敷地の入り口まで歩く。西日が眩しくて目を細めながら歩いていると、数歩先のお兄さんが振り返った。
逆光で顔が見えない。いつの間にかもう敷地外に出たらしい。
「家に帰るのが嫌なら寄り道しながら帰るといいよ。門限は大丈夫なんだろう?」
「まぁね。うん……そうしようかな」
「気を付けて帰るんだよ」
「お兄さんもね」
「うん、さようなら」
明らかな別れの言葉に少しだけ寂しくなった。同時に清々しくもあって、先ほどよりも帰り道を歩くのが少しだけ楽になった気がした。
悲しくなりそうな予感がしたのと、お参りに対する心残りや後ろめたさに引きずられそうだと思ったので、後ろは振り返らずに駅まで歩いて行った。
そうしてお兄さんにおすすめされた通り、寄り道をして買い物をしていたら陽が沈んですっかり暗くなってしまった。
家の塀から中の様子を探ってみた。リビングの灯りが点いている。お父さんの高級車がある。やっぱりもう帰ってきているみたいだ。
何か言われるだろうか。不安で仕方がないが、また折檻されるようなら今度こそお兄さんの言うように遠くに行ってもいいかもしれない。こんな気持ちになったのは初めてだ。
もしそうするなら全部捨てて行かなければ。着の身着のまま、無一文で、必用であれば苗字も捨ててただのとして、誰にも頼らず自分の力で何処かへ行く。考えてみたら、それってなんて素敵なことだろう。
「ただいまー」
いつもならお母さんがお帰りと言うのだが、今日は何も返ってこなかった。お父さんはお風呂だろうか。
テレビの音が聞こえる。夢中になっているのかもしれない。靴を脱いでスリッパに履き替えると、今まで感じたことのない何かが胸に巣食っていることに気が付いた。
五感、それとも第六感?よく分からないが、いつもと違うからこんな気持ちになるのだ。
リビングのドアを開けると見慣れたものばかりが目に入った。
白い壁、大きなテレビ、観葉植物、ソファ……いつもならそこに座っているお母さんの姿はなかった。ソファには、いなかった。
お母さんは床に広がる赤い海に沈んでいた。そう見えたのだ。
お父さんはどこだろう。とりあえず家の中を見て回ろうと最初に書斎へ向かった。
階段を上っていくと、2階の景色が少しずつ見えてきた。滅多に開かないお父さんの書斎のドアが開いていた。
その隙間から見えたのは床に転がる身体。海遊びをしたかのように飛沫があちこちに飛び散っていた。
中には入らなかった。リビングよりも書斎の海の方が深く濃い色をしていた。
「神様って本当にいるんだ……」
そのまま1階まで降りて行き、冷蔵庫から出したジュースで喉を潤した。人生の中で一番の飲み物だと思えるほどに美味しかった。昼間のフロートが不味かっただけに余計にそう思う。
これからどうしようか、どこへ行こうか考えるだけで胸が躍る。赤い海はこれからの航海に相応しい海のように、きらきらと輝いているように見えた。