ロンドン郊外にある屋敷へ馬車が走っている。その中から険しい顔の男が外の景色を眺めていた。
この道を通るのは何年ぶりだろうか。あれは確か、これから向かう屋敷の当主の妻の葬儀に参列した時だったはず。
あの時も今回も、訪れる目的は明るい用向きではない。なんの因果だろうかと微かに憐れみさえ抱いてしまう。
一月前、懇意にしていた卿から手紙が届いた。内容を読んで納得したが、それ以前より彼の家にまつわる悲劇についてはバロックの耳にも届いていた。
彼らが助けを求めるならそれに応えるつもりではいたものの「娘が落ち込んでいるので時間がある時にでも会いに来てはくれないか」という旨の内容にすぐに返事はできなかった。
卿の娘であるの縁談が決まるたびに相手の男が死に至る、という噂は貴族の間ではすっかり有名になっていた。先日で二人目の犠牲者が出たが、根も葉もない噂は留まるところを知らない。上流階級の者は噂話になると舌がよく回るし、悪い噂となると殊更饒舌になるから辟易する。
久しく会っていなかったが、死神の噂がついて回るようになってからも卿はバロックを気にかけてくれた。親同士の結びつきが強かったからという理由もあってか、バロックの両親が亡くなった後にも対応を変えずに付き合おうとしてくれていた。やんわりとそれを拒絶し続けたのはバロックのほうだ。
余計なことを考えないように一心不乱に仕事に打ち込んでいるため、ここ数年はたまに手紙をやりとりするだけだが、こうして会いに行くとなると妙に落ち着かない心地になった。
バロックの記憶にあるは人懐っこい笑顔を浮かべるおっとりとした少女だ。自分やクリムトの後ろをちょこちょこと追いかけ、そのの後ろを彼女の弟が追いかける――そんな日々を思い出した。
あの時のまま変わらない温かい人たちに、一体自分が何をしてやれるというのだろう。当主に依頼された時からずっと考えているのだが、結局答えを見つけられないうちに屋敷に到着してしまった。
珍しくよく晴れた日だった。
懐かしき家の空気。心の温かい人たちが住む屋敷。けれども今は重たい空気と悲壮感が漂っている。屋敷ですれ違う使用人達でさえ、どこか暗い空気を纏っていた。
卿は人の良さそうな笑顔を浮かべてバロックを歓迎してくれた。記憶していたよりも少し年老いたように感じたが、それだけ長い間会っていなかったのだと気付かされて胸が痛んだ。
数年ぶりに会ったは随分雰囲気が変わっていた。振る舞いこそ貴族の令嬢そのものだが、僅かに面影を残しながらも閉したような表情だ。そのため、淑やかさがかえって冷たさを強調しているようだった。
「ご無沙汰しております、バロック様」
「そうだな。こうして会うのはいつ以来だろうな」
と言ってみたが、数年前のの母の葬儀に出席したことを覚えていた。口下手なりの世間話のつもりだった。
気を利かせたつもりなのだろう、卿は二人で中庭を歩いてきてはどうだと言った。こんな時の弟がいればまた空気は違っていたのかもしれないが、彼は去年から寄宿学校に通っている。
なんとなく気まずい空気の中、暖かな外へ出ると少しだけ気分が楽になった。そういえばは昔から外に出ることが好きだったな、ということを思い出した。姉について行きたい弟が追いつけずに迷子になったことが何度もあった。
「お忙しいでしょうに、お時間を割いていただいて申し訳ありません」
唐突に話しかけられて懐古した記憶から戻った。冷たい風のようにの言葉が耳を通って現実に引き戻される。
「なに、気にすることはない。皆が言うほど慌ただしく過ごしているわけではない」
「ロンドンでのことは聞き及んでおります。ですから貴方を長くここに留まらせたくはありません」
「君は相変わらず外の出来事に興味があるようだ」
「もうそれもやめるつもりです。興味を持ったところで意味などないでしょうから」
「それは何故か?」
「貴方もご存知のはずです」
冷たく、しかしどこか疲れたような無表情で言い放った。こんなにはっきり言う娘だったろうか。
連続する婚約者の死、家への悪い噂、それらが様々な形になって悪意となり、温かい人たちを飲み込もうとしている。こんな時に気の利いた言葉一つ見つけられない自分が憎らしかった。
「父が何と言ったのかは存じませんが、どうか断ってくださいませ」
は何故バロックがここへ来たのかを知っている。
ぎくりとしたのを感じ取られまいと、バロックは無表情を貫いた。おっとりした少女像がずっと頭にあったせいか、鋭い勘と自分に対する直接突き放すような態度はなかなか衝撃的だった。
お互いに確かめる言葉は不要だと理解していた。広いようで狭い社会なので、それぞれの噂は耳に届いている。その必要はないのだが、バロックは敢えて訊ねた。
「君は私の噂を聞いたことがあるか?」
「死神のことでしょうか」
一拍置いたのは答えにくかったからだろうか。やはりと思うのと同時に、知っているのであれば話は早い。今感じた安堵はどういう感情からくるものだったのだろう。
父親がいくら娘の耳に届かないように気を配っても、自身に関する不気味な噂が溢れ出ることは防げないし、彼女が知らないはずがない。
手紙の内容を頭の中で反芻する。娘が落ち込んでいるので会いに来てくれないかと綴った父親としての懇願。しかしバロックはその手紙の内容から、遠回しではあるが別の意味合いの願いも読み取った。ここに来るまでの道中、ずっとどうするかを考えていたし、今でも答えを出せずにいる。
中途半端に希望を持たせることは酷だ。叶えてやれないことなら始めから希望を持たせるべきではない。
「私は君に、不名誉な称号と不幸を分け与えたくはない」
「私も同じです。貴方を不幸にさせたくありません」
ほっとしたようには目を閉じた。それを見て湧き上がる、先程の安堵にも似たこの気持ちは何なのだろう。
もしもここに暗い雰囲気が流れておらず、お互いに後ろめたいものもなければ、子どもの時分を知っているだけあって見事な淑女に成長したものだと感心していたのだろう。そうできない今の状況が不憫でもあった。
「君はこの先どうするつもりだ?」
「私が嫁がなければ何も起こらないと思います。弟のためにも、これ以上家の悪い噂を広めるわけにはいきません」
父には申し訳ないですが、と付け加えたは自嘲気味に微笑んだ。それが今日初めて見る彼女の笑顔だった。
帰りの馬車の中で揺られながらバロックは目を閉じた。何もできなかった後悔。美しい庭の草木や花が家の人々とは反対に輝いていたのがなんとも皮肉で、それがさらに寂しさを煽った。
元々この話は断る気でいたのだ。所帯を持ったところで、自分と一緒になる相手には負担と危険が常に付き纏うことになる。それが昔から世話になっている家の娘、妹のように思っていた相手となれば、それを強いることは尚更憚られる。
しかし外に向けた明るさを閉じて、この先もそうすることに意味などないと言ったあの諦めは、バロックに重く暗い夢を見ているような心地にさせた。
嫁ぎ先の候補者が次々と不幸に見舞われるとは言え、犯人を捕らえてしまえばそれも終わる。であれば結婚を申し込む者も多いだろう。検事として助けることはできる。だが、そうではない自分に何ができようか。
だからこそ決断した。夕日に照らされた馬車は再び屋敷へと走り出す。
出迎えた使用人にの居場所を訊ねると、もう日が暮れるというのに先程別れてから移動していないようだった。一人にして欲しいと言われたのだそうだ。
最後にいた場所にはいなかったので、辺りを見渡しながら奥へと進む。昔こんな風に、兄と一緒に姉弟を探しに広い庭を歩いたことを思い出した。弟の方はいつも姉を見失って泣いていたのに、は優雅に一人で誰もいない場所を満喫していた。その自由奔放な様子を兄と二人で笑って賞賛したものだ。
しかし一緒に探しにいく兄はもういない。今のも楽しむために庭の奥へ行ったわけでもない。あの懐かしい日々はもう二度と戻ってこない。この先も、果たしてどうだろう。
たどり着いた庭園の奥は、まるで秘密基地のようにテーブルや椅子がひっそりと置かれ、はこちらに背を向けて座っていた。その後ろ姿はとても頼りなく見えた。
「」
びくりと小さな肩が跳ねる。振り返って立ちあがろうとするのを制して座らせ、バロックは彼女に近づいた。
「バロック様?何か忘れ物でもありましたか?」
「そうだ。言い忘れと言った方が正しいのかもしれないが」
片膝をついての手を取る。陽が落ちかけているからか冷え切っているのが手袋越しにも伝わった。
「・、私と結婚して欲しい。今すぐにとは言わない。どうか前向きに考えてもらえないだろうか」
固まったままのは何も言わない。だが、戸惑い呆然とした状態からすぐに我に返った。
「分け与えたくないものがあると仰っていたではありませんか。私も同じ気持ちです」
「そうだな。だがいつまでも放置するわけにもいくまい」
嫁がなければ害はないとは言っていたが、これは単なる恨みに連なる事件ではないだろうとバロックは考えていた。手紙をもらってからあらゆる情報を探っていたため、次の犠牲者が出る前に解決できるはずだ。これは検事である自分にしか解決できないことだと確信している。この人達が再び温かな気持ちを取り戻せるのならば力になろう。
ただ、検事ではない自分、バロック・バンジークスとして何をしてやれるか――それを感じ取ったは憂いに沈んだ顔で、静かに怒りを含ませた。
「同情からくるものでしたらおやめ下さい。その方が傷つきます」
「そんなつもりで求婚したわけではない」
「囮にでもなるつもりですか?絶対に、それはやめて、ください……」
ぱたりとの膝に滴が落ちた。緊張の糸が切れた音だった。
同情が全くなかったわけではない。ただそれよりもお互いの不幸を確認できたこと、言葉が少なくてもそれを共有したこと、この庭で過ごした過去の時間を思い出したこと、何よりこれ以上無理を続けてほしくないこと。の求める理由ではないかもしれないが、そういった全てが一つとなって自分を奮い立たせたのだとバロックは思った。
嗚咽を噛み殺しているの濡れた頬を指で拭った。そんな姿を見ていると一刻もはやく解決しなければと焦燥感に駆られるが、流石に早急過ぎたかもしれない。
「……ではこうするのはどうだろう。私から約束と提案を。まず、一ヵ月以内に犯人を捕えると約束しよう」
「そんな」
「そして私がその約束を叶えたら、求婚を受け入れてはくれないだろうか」
検事ではない自分にしてやれることなど殆どない。しかし今すぐそれを用意できないことに焦りを感じなくても良い。幼い姉弟を探しに歩いたあの日から今日までの年月ほどの時間がかかっても、自分に誇れるような何かを用意できればそれで良いのかもしれない。それまで待たせてしまうことにはなるが、必ず叶えてみせる。
瞬きをしたの瞳からまた一滴こぼれ落ち、じわりと手袋の指先に染み込んだ。
「……あら、お茶がなくなってしまったわ。ちょっと休憩にしましょうか」
「えー!こんな続きが気になるところで!?」
「続きというか、結果ならアイリスちゃんもわかっているじゃない」
「そうだけど、そういうことじゃなくて!」
麗らかな日差しの下で二人きりのお茶会を一旦切り上げた。ずいぶん長いこと語ったせいか喉が渇く。それをアイリスもわかっているのか、側に控えていたメイドが紅茶を淹れて離れるまで大人しく座っていた。本当に、頭の良い優しい子だ。
ここは家の庭ではないが、ロンドンの喧騒から離れた場所にある屋敷という点では似ている。バンジークス家が所有している別荘の内の一つをの仮住まいとしている。近くにいるのは危険という判断でバロックが配慮したことだが、安全であることはともかく、あまりにも暇なのが悩みの種だった。
だからこそ目の前に座る少女――アイリスが遊びに来てくれて嬉しかった。馴れ初めを聞きたいとねだられて思い出話として語っていたのだが、途中から多幸感でいっぱいでつい饒舌になってしまった。
「あたし死神くんには絶対言わないよ。だから、ね?正直なところ、プロポーズされてどう思った?」
本当に十歳だろうかと思うほどに頭がよく思考も大人びているが、こういう少女らしさが愛おしい。他の貴族の令嬢であれば品があるように見えてもっと嫌らしく聞いてくるものだが、率直に聞いてくるアイリスに対しては、つい口が軽くなる。
「嬉しいとかそういう気持ちより、絶対駄目!って気持ちの方が大きかったわ」
「嫌!じゃなくて?」
「子どもの頃に憧れていた人が自分のせいで死ぬかもしれないっていう、絶望的な気持ち……」
決して可愛らしい内容ではないが、それを聞いてぱっと笑顔になったアイリスは頬を紅潮させた。
「やっぱりさん、そうだったのね?そんな気がしてたの」
「あら、誰にも言ったことなかったのに。ついうっかり……」
「死神くんにも?」
「そうよ。だから私たちだけの秘密にしてね?」
「うん、約束する!……あ、ホームズくん!」
大きく手を振ったアイリスの視線の先にはシャーロック・ホームズと、その隣にはうんざりした顔のバロックがいた。様子を見るに、一方的にホームズだけが喋っているようだ。仕事で遅れると言った二人が一緒に来るとは驚きだ。
アイリスに気づいたホームズも大きく手を振り返す。ご機嫌なホームズとは対照的にバロックは険しい表情をしているが、あれは機嫌が悪いわけではない。アイリスとホームズの二人をお茶会に招いても良いかと聞いた時の困惑した顔とも違う。「もちろん貴方も参加するんですよ」と付け加えた時の複雑そうな顔に似ている。
じっと見つめていると、ばつが悪そうな表情を浮かべたが、すぐに打ち消して困ったような微笑を浮かべた。ここにいる誰もあれが笑顔の一種だとは思わないだろう。
「死神くん、やっぱり嫌だったかな?」
「そうじゃないわ。実はね、ああ見えてすごく緊張しているのよ」
「そうは見えないの……でもそうなのかも?」
「こんなに賑やかなお茶会は久しぶりだからね。アイリスちゃん、緊張をほぐしてあげてくれる?」
「うん!さん、さっきの話、今度また続き聞かせてね。あと、事件の真相と犯人も!死神くんがオーケーしてくれたらあたしが小説書くから!」
そう言ってアイリスは二人の元へと駆けて行った。なんだか今とんでもないことを言ったような気がする。
アイリスを迎えるようにホームズも手を広げて駆け寄ってくる。感動の再会のようなハグをする姿が微笑ましかった。その後ろにいる落ち着かない様子のバロックを見て思わず吹き出してしまった。
私も今度やってみようかしら。
長い年月を共に過ごしているが、ふとした瞬間に未だに知らない側面を見ることがあるし、久しぶりに見る懐かしい一面もある。あの人の暗がりの全てを救うことはできないかもしれない。それでも今日のような暖かな陽の幸福の下では、不思議とその陽光に似たものが胸の内に灯って力を与えてくれるように感じた。