翡翠の瞳と視線が合う日が来るとは思ってもみなかった。ましてや英傑の一人である方に名前を呼ばれるなんて、自分の人生ではあり得ないことだと思っていた。
姫様の部屋に飾る花を同僚が受け取りに行ったので、私はそのための花瓶を見繕いにきた。候補を三本に絞って、どんな色であっても映えるような花瓶を選び終えた時のこと。この蔵は滅多に人が入らないので少し埃っぽい。備え付けられた大きな窓と部屋の扉を開けて換気すると、柔らかな風が通り抜けていくのが心地よい。このまま少し休憩しようとしたところで廊下の向こうから声をかけられた。
道を聞かれたり姫様のことを聞かれるのはまだいい。そこから他の話に繋がるのであれば自分なりに頭の中を整理することができたのに。彼は少し用事を済ませるくらいにしか考えていないかもしれないが、私にとっては大事件もいいところである。そんなことを英傑様に直接言えるような身分ではないから尚更困るのだ。
「それで?何か希望があれば言ってくれないかな」
リト族の英傑、リーバル様。離れたところからしか見たことがなかったが、近くで見ると私の背丈より少し高い。翡翠色の瞳だとわかったのはこの時が初めてだった。
お礼がしたいと言われて何のことだかわからず呆けてしまった。リーバル様に詳しく説明されるまですっかり忘れていたのだが、そういえば先月、彼の落とし物を拾って姫様に届けたのだった。
しかし、とても回答に困る。姫様からでも恐れ多いのに、関わりの少ない、いや全くない英傑様から何かを賜るというのは、本当に困る。武功を立てた騎士であれば素直に喜べたのだろうか。
こんなことなら誰かに押し付けてしまえば、もしくはやらなければ良かったのだ。それなのに一度頭に浮かんだことが離れなくて、わざわざ暗闇を掻き分けて歩いたのは先月のこと。
英傑様の落とし物。族長からいただいたものらしいと誰かが囁いていた。
常に姫様の側に控えているから、色々な話が耳に入ってきた。目が悪い代わりに耳が周りの音や声をよく拾うようになったのだ。
ハイリア人以外の種族のことをよく知らないが、私たちで言うところの王様や姫様から賜ったものを失くしてしまったということなのだと解釈した。私は王以外の長という存在を知らないから、それぞれ違う種族だとしても同じ存在として捉えてしまう。だから失くしたというのは大変なことなのではないかと、単純にそう思っただけだ。
私を侍女にしてくださった姫様の助けになりたい。それなら姫様を支えてくださる英傑様のために働くことも、姫様のためになるのではないか。
探してほしいと誰かに請われたわけではない。自分の仕事を放棄してまで探すつもりもない。だから一番時間のある夜に、城の周りを少しだけ探してみようと思った。
手元のランプを頼りに恐る恐る道を進んだ。暗闇の中、それが仄かな光を放っているように見えていたら、どんなに見つけやすいことだろう。けれどそんな風に見えることはなく、それどころか常人よりも悪い視力のせいで夜の暗闇は暗黒に近い。
鳥目とはこれより見えないのものだろうか。リト族はハイリア人と同様に夜は目が効かないのだと姫様が言っておられたことに、少しだけ親近感を覚えた。
見つけられたのは本当に偶然だ。落とし物は石がついたお守りのような、勲章のようなものだった。光っていれば見つけやすいのにと思っていたが、夜光石でできているものではなかった。一目で落とし物だとわかったのは、リト族の意匠があしらわれていたというのもあるが、ランプの灯りに照らされた時、私の目には星々のようにきらきらとした輝きを放っているように見えたのだ。
今思うとあれはきっと、発見できた高揚感でそう見えただけなのだろう。次の日に姫様に届けた時はそういう風には見えなかった。
「……本当に、どうかお気遣いのないように。見つけることができたのも本当に偶然でしたから」
平静を装ってみてはいるが、内心とても混乱している。
きっと姫様が私の名前を出したのだろう。私が直接お返しするわけにはいかないから姫様にお願いしたのだ。
お礼というなら姫様を介してくれた方が助かるのだが、そんなことを言えるはずもない。不遜な態度だが言葉に棘はなく、すらすらと澱みなく言葉が出てくる相手には余計に対応しづらい。近衞騎士殿くらい無口な方が答えやすかった――これもこの方の前で言えるはずがない。
「お役に立てて光栄です。それ以上は望みません」
「ハイリア人ってのは皆欲がないものなのかな……いやそんなことはないか。こんなに大きな国を築けたんだしね」
噂には聞いていたし、姫様のそばでもたまにやり取りを聞いたことはあったが、随分皮肉めいたことを言う方だ。不思議と嫌な気持ちにはならなかった。周りにそういう人物がいないせいか妙に新鮮な心地がした。
私に欲が全くないわけではない。つましくも衣食住が整った環境を望んでいる。そう言うと、リーバル様は首を傾げた。
「それって生きている者が皆望むことだろう?義務に等しいものだ。しかも君の場合、もう叶ってる」
あまりにも正論すぎて、そうですねと言うしかなかった。
王宮暮らしは安定した生活を送ることができる。忙しい毎日でも充実しているし、誰かのために役に立てている実感がある。確かに私の願いはもう叶っているし、これ以上のことは望むまいと常々思っている。
この感じは、もしかしてリーバル様が納得するまで続くのだろうか?私の仕事が一段落したのを見計って声を掛けたのだろうか。どう言えば諦めてもらえるだろう。
部屋の中を一瞬強い風が通り、窓を閉めようかと思ったがその強さは一度きりだった。寒くはありませんかと聞こうとしたが、へブラ地方に住む彼に聞くのは野暮だと気づいてやめた。
その一瞬の風で閃いた。風の心地良さ、リト族、窓の向こう側にある大空。
「では……一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「うん?もちろん」
「空を飛ぶのはどんな心地がするものですか?」
あの夜に探し物をした時、鳥目とはどんな感じなのかという疑問はあった。だけど直接聞くにしては感じのいい質問と思えなかったし、視力の悪さなら自分が一番どういうものか理解している。こういう明るい場所であれば相手の顔も認識できるし、わざわざ聞くようなことではないと思い、その質問はやめた。
質問の意図が伝わらなかったようで、リーバル様は首を傾げた。
「私は他の人よりも視力が悪いので遠くのものは殆ど見えません。リト族の方は目がとても良いと聞いたので、どんな風に景色が見えているのかと思いました」
ふむ、と少し考え込むように嘴に翼をあてた。ハイリア人が顎に手を当てて考える仕草と同じだ。間近で見る機会がなかったため、つい目で追ってしまう。ハイリア人とは違う体の造りなのに、動きは何の違いもない。
「空は気持ちがいい。僕らリト族が一番自由でいられる場所だ。見える景色……あまり考えたことはなかったけれど、決して悪いものではないよ」
良いものだとは言わずとも、皮肉屋のこの方がそう言うのなら、それは賛美に等しいのではないだろうか。
どうしてこんな質問をしようと思ったのか、なんとなくわかった気がする。毎日空を見上げて天気を確認したり、鳥の鳴き声がすると自然とそちらの方を見ていたり、いつでも何気ない時に空を見上げていた。何気ない行動ではあるけれど、きっとそれはそこに暮らす自分とは違う存在を意識していたのだ。
「リト族が空を飛ぶのは、ハイリア人が陸を歩くのと同じさ。君たちで言うところの、大地を歩いているという感覚なんじゃないかな」
「ええと、つまり……」
「当たり前のもの、なくてはならないもの。そんなところかな。それこそ君の望みと同じところにある」
みんなが望んでいるもの。それだけ聞くとありふれたような感じがするが、それがどれだけ尊いものかは失ってから初めて気づくのだろう。当たり前の日常が一番幸せなのだということは私にもわかる。
こうして直接お話を聞いていると、姫様のそばでやり取りを聞いていた時とは違う印象をリーバル様に抱いた。自信家で皮肉屋という心象はあまり変わらないが、相手のための真摯な言葉を探してくださる、それこそ騎士のような……リト族の場合は戦士といった方が正しいのか。そういう類いの誠実さを感じた。
縁遠い存在だから通じ合えることはない、というかそんな機会があることすら念頭になかった。だからこそ言葉を尽くしてくださったことが嬉しかった。私が一方的に言葉を理解してもらえたと思っているだけだから、通じ合えたというのは少し違うかもしれないけれど。
「お話を聞くことができて嬉しく思います。ありがとうございました」
「要望に応えておいてなんだけど、お礼をした気分にはならないな……」
「ご期待に添えずに申し訳ありません」
「いや、君が満足したならそれでいい。僕は僕が納得するやり方にした方が良さそうだ。方法を変えることにするよ」
「え?」
「それじゃ、邪魔して悪かったね。拾ってくれてありがとう」
颯爽と部屋を出て行くリーバル様の後ろ姿を見送る。今の出来事はなんだったのだろうという夢心地のような浮遊感が遅れてやってきた。それも同僚が帰ってきて花を生ける頃にはすっかり消えてしまった。あとはいつもの日常に戻るだけだと思っていた。
その日の夜、就寝前の姫様に唐突に「、貴方は確かイチゴが好きでしたね」と聞かれた。はい好きですよ、果物の中で一番好きですと答えた時、姫様はどこか嬉しそうな表情をしていた気がする。日常的な会話の一つだと思っていたのだが、その数週間後に姫様から籠いっぱいのイチゴを賜った。
受け取る理由がわからず困惑した私に「これが彼なりのお礼の形なんですよ」とまた姫様は嬉しそうに微笑んだ。該当する人物が思い浮かばず、姫様に仄めかされてようやく贈り主が判明した。
更なる困惑。数週間前の既視感覚。そういえばあの日、最後に彼はなんと言っていたっけ?
「これは、お礼をするべきですよね?こんなに勿体無い……」
「まあ、そんな風に遠慮するのはの良くない癖ですよ」
「では明日のおやつのケーキにいかがでしょう。私一人では食べきれませんし」
「私の分のケーキだけでもきっと沢山残ってしまうから、がお礼をしたいなら私も力になりましょう」
姫様が嬉しいなら私も嬉しい……はずなのだが、こういうのは不慣れだ。緊張するという一言には収まりきらない別の気持ちが混在しているのだが、いずれ慣れる日が来るのだろうか。
相応のお礼は私には思いつかないから、姫様のご助力がどうしても必要になる。籠に沢山詰められたイチゴをじっと見ると、形容しがたいもどかしさが湧き上がってくる。好きなものが沢山あるというのは確かに嬉しい。嬉しいのだけれど……
「まさかとは思いますが、お礼のお礼って、更に何か返ってきたりしないですよね……?」
「ふふ、さあどうかしら」