祝言を待つ狐



「あら、雨」

 ににつられて縁側の外を見た。太陽が照る中、雨はぽつぽつと降り始め、その数秒後にはさあさあと雨の優しい音が耳に届いた。
 雨を眺めながら茶を飲むのも良いものだと三日月が言っていたのを思い出す。なるほど確かに悪くない。だが自慢の毛並みの調子が悪くなるような気がした。

「蒸し暑くなりそうですね」
「うん。でも最近は晴ればっかりだったから、畑にとっては恵みの雨だね」

 何事も前向きにとらえる主の姿勢を小狐丸は気に入っていた。晴れた日のように笑うのも好きだった。
 彼が顕現したのは少しばかり前で、ここでは古参の内に入る。はじめの頃は何事も慌ただしかったが、戦力や備蓄が増えた今ではゆったりとした時間を過ごすことができるようになった。
 そういえばね、とが切り出しいつものお喋りの時間が始まった。

「昔お祭りに行った時に狐のお面を買ってもらったんだ」
「おや、唐突に何をおっしゃるかと思えば」
「こういうの狐の嫁入りって言うんでしょ?」
「ええ。同じ狐としては嬉しい限りですが。しかし幼子はもっと可愛らしい面を好むと思っておりました」
「他の子と違うのが欲しくてお母さんにねだったんだよね」

 他の子どもと違うものを持ちたいという気持ちが強かった。それならひょっとこやおかめでもいいじゃないと言われたが、狐の方が可愛いのだ。女子はいつだって可愛い方を選ぶに決まっている。
 主にも子どもらしい頃があったのだなと、小狐丸は楽しそうに笑った。さぞ愛らしい童女であったことだろう。

「ではぬし様の希望通り、他とは違う気分を味わえたのですね」
「と思ったんだけどね、他に一人だけいたんだよ」
「なんと、酔狂な子が他にもいたとは」
「こら、と言いたいところだけど、そうなんだよね。ちょっとテンション下がった」

 十にも満たない頃だ。母に手を引かれて祭へ行った。
 梅の花が描かれた浴衣はその頃の年齢としては渋い方だったが、色が気に入っていた。髪も浴衣に合うように母が結わえてくれて、いつもと違う格好に胸が躍った。
 だが周りに夢中になるあまり、途中で母とはぐれてしまったのだ。
 見知った顔も見かけなかったので、泣きそうになりながら母の姿を探した。夕暮れだった空は次第に暗くなり、提灯や屋台の灯りが一際眩しく感じたのに心細さだけは消えない。
 明るいはずなのに周りを歩く人達の顔をしっかり見ることができなかった。見ようとしても顔を認識できなかったような気がする。
 屋台の列の終わりを抜けると、いよいよ不安が大きくなった。賑わう方を振り返っても、自分だけ遠い世界にいるようで寂しさが増しただけだった。
 とうとう涙が零れ落ちると、後ろで可愛らしい鈴の音が鳴った。驚いて振り返ると、少し離れた木の陰から紺色の浴衣を着た男の子がこちらを見つめていた。

「ではその少年が?」
「そう。唯一会った狐のお面の子」
「そんな場所から見られて不気味だとは思いませんでしたか?」
「驚いたけどそこまで思ってなかった。むしろ自分と同じ迷子なのかなぁって安心したよ」

 どうしてそんなところにいるのかと声をかけても、その男の子は何も言わなかった。こっちに来たら、と言うと少し考え込んでからこちらへやって来た。
 その時何か話したのかもしれない。何を話したかというどころか彼の声も覚えていない。
 それでも似たような相手に会えたことで安心したのだろう。その後手を繋いでお互いの親を探すことになったのだ。
 歩くたびに鈴の音がしたが、が見たところそれらしき物は見当たらなかった。当時は浴衣の構造を知らなかったので、ポケットに鈴を入れているのかと考えたものだ。

「多分、私が不安で仕方なかったから一方的に喋ってたかもしれない」
「それはまあ、迷子であれば仕方のないことですよ」
「でも二人だったから怖くなかったし、その後お母さんにも会えたんだけどね、今度はその子とはぐれちゃったの」

 母に言ってどれだけ探しても見つからなかった。結局、祭を運営する団体の本部まで行って迷子保護担当の人に伝えるくらいしかできなかった。
 それだけが気がかりで毎年お祭りの時期が来ると少年のことを思い出す。年々記憶が曖昧になっていくが、意識が消えることはない。
 どんな子だったかな、とは思い出そうとしているが、きっと思い出すことはないだろう。

「思い出せないのなら無理に思い出すことはありません。靄にかかったままの方が美しい思い出ということもあります故」
「そうかな……」
「ええ。むしろ私はぬし様の子どもの頃、そしてここへ来るまでのことを聞いてみたいですね」

 主がどんな幼少期を過ごしたのか、仕える身としては知りたいところだ。あまり詳しくは知らないが、きっとは家族や友人に恵まれた環境にいたのだろう。小狐丸の予想でしかないが、そうであって欲しかった。
 幸せに生きてきたはずの人間なのだ。そうでないのならこれから幸せに生きてほしい。この本丸でも健やかに暮らしてほしい。

「……と、その前に、まずは昼餉といたしましょう。今日の当番は鳴狐ですよ。手作りのいなり寿司を食べに行きませんか」
「そうだね、うん。食べながらでもいいしね」

 湯呑などを片づけ庭に背を向ける。の後ろに続こうとする小狐丸は、主である彼女を守るように、自分の体で彼女の背を隠すつもりだった。
 背後でちりんと音が鳴った。聞き逃しそうな、気のせいかもしれない、小さな音だ。研ぎ澄まされた小狐丸の耳にはしっかり届いた。
 は振り向かなかった。聞こえなかったらしい。代わりに小狐丸が振り返ると、ここへ来てからどうにも引っかかっていた何かを、ようやく拝むことができた。
 見覚えのない狐の面をつけた何者かが、野菜畑の向こうのさらに奥に立っている。
 この本丸で出会っているはずがない。狐と名乗る刀はこの本丸には二振りしかいないのだ。
 ここでは顔を隠すことは禁止されている。覆面は主に不敬だと長谷部が言っていたこと、それがいつの間にか浸透して規則のようになっていることを、同じく主に献身する小狐丸が忘れるはずがない。

「油揚げでもやって消えてくれれば良いのだが。いや、恐らくそう簡単にはいくまい」

 幾年月が経っても、そして現世からこちらに移り審神者として生きるをずっと追いかけてきたものが、ただ純粋な感情のみで動いているとは思えない。
 忘れていることならば無理に思い出すことはない。何か約束を交わしていたのなら尚更だ。そのうち何を忘れていたのかさえ忘れてくれるはずだ。
 一向に消える気配のない面の男は、小狐丸を睨んでいるようにも見えた。神域に踏み込めないのであれば、あれの善し悪しはもう決まっているのかもしれない。
 狐は狐を睨み、忌々しく、恨めしそうな声で鳴いた。

「厄介な狐よ」