日が昇り始めると同時に一人また一人と起床する。まだ暗いうちから誰よりも早く起床し炊事場を仕切るのは女中ではない。武将の妻である女が誰より早くそこへ向かうのだ。
はその日も朝餉を作るために早く目が覚めた。朝方はまだ冷え込むが、長年続いた習慣であるおかげか布団が恋しいと思うこともなくなった。
女中が部屋にやって来る前には着替えを済ませてしまう。そうして一人きりの部屋を後にするのだ。襖を閉める直前に見えた暗い部屋は物寂しさを放っていた。
音を立てないように廊下を歩いてもこの時間帯に誰かとすれ違うことはない。昼間はそれなりに賑わうというのに寂しいものだ。
すると珍しく遠くから音が聞こえた。こんな朝早くに起きるとは仕事熱心な女中だこと。そう思ったのも束の間、この急くような歩き方は女中ではない。思わずの足もそれにつられて速くなる。そして廊下の奥でその人物の後ろ姿を見かけて呼び止めた。
「三成様!」
「……静かにしろ。まだ日も昇っていないというのに」
「し、失礼いたしました。お帰りなさいませ。おはようございます」
暫く顔を合わせていない三成の姿を見て、思わず迎えの言葉も朝の挨拶も繋げて言ってしまった。相変わらずだなと三成は小さく笑った。
外交や戦のため城を留守にする間、三成がいつ帰って来るのかには分からない。それだけに待ち遠しく、ぬくもりのない部屋で一人寂しく朝を迎えることを余儀なくされるのだ。
最後に会ったのは数週間前。久しぶりに見る夫の顔に疲れが見えないのは流石だと心の中で感心した。実際、が三成のそんな表情を見たのは片手で数えるほどしかないのだが。
「いつお戻りになったのですか?」
「たった今だ。……まだ女中の真似事をしているのか」
「あら、秀吉様はこんなことでお叱りになりませんわ。それに半兵衛様もご推奨してくださいました」
そこで彼が崇拝する人物の名前を出してしまえばぐうの音も出なくなる。本当のことなので殊更は得意気に言ったが、あまりそれを続けては三成の気分を害してしまう。
「ところで、朝餉はいかがいたしますか?」
「いらん」
「ではお休みに……?」
「政務が残っている」
まぁ、と驚きの声が出てしまった。遠い場所から帰って来たばかりだと言うのにどこまで仕事人間なのだろうか。そんなことは口が裂けても言わないが、少しくらい休んでも罰は当たらないだろうというのがの本音である。
「では昼頃に何かお持ちしましょうか」
「だから……」
「いらぬと申されても食事はとっていただきますよ。一日二食は基本中の基本。時には一日三食。お断りされた暁にはこの、半兵衛様に進言するつもりでございます」
日もまだ昇っていないというのによくもこうハキハキと喋るものだ。三成は嫌悪感を露わにしたが、の言う通りわざわざ半兵衛に余計な気を遣わせてしまうのは忍びない。
反論する気力もなく、舌打ちをしてから顔を逸らした。勝手にしろと言われたのだと判断して「昼頃に軽食をお持ちします」と言った。
宣言した通り政務に向かうのであろう三成は何も言わずにその場を去ろうとしたが、が一度彼の名を呼ぶと歩みを止めて振り返った。
「三成様、お帰りを心待ちにしておりました。は嬉しゅうございます」
「……フン」
返事がないよりずっと良い。それが彼なりの愛情表現なのだと分かっているからそれで満足だ。三成の姿が見えなくなるまではその後ろ姿を見送った。
◇
進んで食事をとらない三成を、は常日頃から心配している。
昔は自分が食事を勧めても無視されるか罵倒されるかのどちらかだけで、そんな彼がすんなり言葉を受け入れるのは半兵衛と秀吉のみであった。時々大谷までもがそこに名を連ねる。
そんな事情のせいもあり、彼らに嫉妬したことがないわけでもない。けれども三成には絶対に言わないと決めていることだ。馬鹿馬鹿しいと一蹴されるか本気で嫌われてしまうかのどちらかが落ちだ。
三成は決して頼りないわけではないし弱いわけでもない。けれどもあの細身の体がいつ倒れてしまうか分からず、いつも不安が付きまとうのだ。
「三成様、にございます」
「入れ」
襖をそっと開き、膳を持ったは部屋へと足を踏み入れた。
女中がするようなことを、と初めの頃こそ三成は咎めたが今では文句の一つも言わなくなった。特別弁が立つというわけでもないのに、食事のこととなるとやたら熱を込めるに圧倒され根負けしたのだ。
「季節の野菜を取り入れてみました。お口に合うといいのですけれど」
「腹に入ればどれも同じだ」
「またそんなことを……」
食事をとらせることは半兵衛に言われたからというのは勿論だが、の思いがなかなか伝わらないのが悩みの種である。
箸を進めている最中も三成の眉はぴくりとも動かない。美味しいのか不味いのか、昔はそればかり気にしてはらはらしながら彼の食事風景を見ていたものだ。今もその心配がないと言えば嘘になるが、以前よりは少し心に余裕が持てるようになった。完食してくれるのが何よりの証拠であるから余計な気を回すことはしない。
「季節によって彩りも香りも違うんですよ」
「見れば分かる。第一腹に入ってしまえば見かけなどどうでもいい」
「三成様に見た目の悪い食事をお出しするなんて、私が嫌です!」
珍しく眉の釣り上がった顔には迫力の欠片もない。三成には理解できないが、食事について熱くなる時のを見るのは愉快と感じる時もあった。
この地を離れ遠くへ赴いた三成の話や、城で帰りを待つの日常話などで食事が進んでいく。三成の反応は薄いがそれなりに感情を表すことも稀にあった。一方では土産話の見知らぬ土地や人の姿を想像して気持ちが華やいだ。
話が弾んだところでが「そういえば」と思い出したように言った。
「外に出ている間、きちんと食事はとられましたか?」
「いつも通りだ」
「大谷様に同じことを訊きましたところ、一日一食だった日もあったと伺いましたが」
「貴様……何故先に刑部に尋ねた」
「三成様が一番よくご存知でしょうに」
いつもこうだ。食事をきちんととるようにと口うるさいの小言は三成の気分を滅入らせる。どれだけ睨んでもこんな時ばかりは彼女も譲らない。
食事を上手いとか不味いとか、そういう基準は三成にとってどうでも良いことだった。必要な時に必要な分だけ食べればいいのだ。それで困ったことなど一度もない。三成が思っている分には。
「嘘は言っていない」
「ですが……」
「いい加減口を閉じろ。せっかくの飯が不味くなる」
帰って来て早々に何故小言を言われなければいけないのだ。苛ついた口調でピシャリと言い放って再び箸を進めた。
いつもならそこでいくつか文句が降って来るのだが、は本当に黙ってしまった。三成としてもそこまで強く言ったつもりはない。
不思議に思ってを見ると目を丸くしている。何をそんなに驚いている、と言おうとして気が付いた。しまった、と思って否定しようとしても時すでに遅し。三成の言葉に満足したのかは嬉しそうな顔で笑った。
「今日は美味しいと思っていただけましたか!」
の周りにぱっと花が咲いた。挙句の果てに、今日は腕をふるった甲斐がありました、なんて自己完結してしまっている。
これには三成も言葉が詰まってしまった。否定すればむしろ逆効果。しかし肯定しようとは思わない。どちらにしてもの喜びと言う名の笑いは止まらないのだ。
その葛藤が次第に三成の顔に現れ表情を歪めているのだが、はそれを見てますます笑みを深めた。途端に無言になってしまった三成を見て、なんて可愛らしい方だろうとそっと心の中で呟いた。