寒気がするわけでもないのに時々そう感じてしまうのは纏う空気が重々しいせいだろうか。
そのせいかどうかは分からないが、城で暮らす人々の表情にも翳りが見える。はなるべくそうならないようにと努めたが、一人でいる間ばかりはそうもいかなかった。
前にも増して城を留守にするようになった三成の帰りを、いつものように指折り数えて待ち続けていた。冷に考えれば数える指が足りないほど彼は長く城を空けるようになったのだが、はそれに気が付かない。
そうして久方ぶりに帰って来た三成は満身創痍もいいところで、血に塗れたその姿を見るのは随分久しく、はその場で倒れそうになったほどだ。
交わす会話もなく部屋へ運ばれた三成と別れ、気付いた頃には満月が不気味に光っている時刻になっていた。部屋の前でうろつくわけにもいかず、かと言って自室で眠る気も起きず、は庭で池に映る月をぼんやり眺めて気を紛らわすことしかできなかった。
そうしてからどれくらい時間が経ったかは分からないが、名前を呼ばれてようやく我に返る。縁側から大谷がじっとこちらを見つめていた。
「負傷しているとは言え、触らぬ神に祟りなし。ぬしの首とは言わずとも手首くらいは飛ぶやもしれぬ」
「……何があったのですか?」
「なに、運悪く家康の顔を見かけただけのこと」
まこと不運な男よ、と大谷は哀れんだ。その名前を聞いての脳裏にあの爽やかな青年の笑顔が思い浮かぶ。三成とは対照的な太陽のような人。しかし三成が敵と見なすならば敵。そう思う外ないのだ。
「まだ起きているでしょうか」
「眠って身を落ち着かせようとする奴であればこちらも楽であったがなァ。寝かしつけてやればよかろ」
「そうですね……様子を見てきます」
「ぬしに武運を」
それだけ言って大谷は闇の中へ消えた。誰と戦えと言うのだとは戸惑ったが、それだけ三成が激昂しているのだろう。彼が絶対に自分を斬らないとは断言できない。大谷の言葉が何度も頭の中で繰り返されるが、斬られることが怖いのではないのだ。
もう一度庭から見える満月を見ると、それが三成と重なった。
◇
人の気配に過敏になる相手だから部屋の前で躊躇っている暇はない。着くなりは名乗り様子を伺ったが、返事は一向に返ってこない。入れという入室の許可も、立ち去れという拒絶の言葉も何もない。
少し迷ってから「入りますね」と言って襖を開いた。恐る恐るそこにいるはずの三成を見ると、彼はこちらを見ていなかった。褥から起き上がり自らの額に手を当てるその姿は、悔やんでいるようにも怒りを抑えているようにも見える。
水桶と手拭いを持ち、はそっと三成に近づいた。正座して様子を伺うも、自分に気づいているのかいないのか分からず、小さく彼の名前を呼ぶとぴくりと肩が動いた。
「お加減はいかがですか?」
「……こんな傷、大したことはない」
額を覆っていない手は夜着を固く握りしめている。その手をほどいてあげたいと思ってもにはできなかった。心身共に、もしくは心の傷の方が深いかもしれない三成を癒せる言葉はこの状況で咄嗟に出てこないのだ。
左腕に巻かれた布からはじわりと血が滲んでいる。着物の隙間からはそれしか見えないが、隠れているだけで他にも傷はあるのだろう。それを想像してはぞっとした。
途端に三成の体がわなわなと震え出す。夜着を握りしめる拳のみならず、自らの顔でさえ締め付けているように見えた。
「こんなことをしている場合ではない……私は家康を殺さねばならないと言うのに!」
悲痛な叫びの後、拳で畳を叩いた。ぎりぎりと握り締められた掌は爪が深く食い込み血が出そうなほど固い。
「三成様、お願いですからどうかお怪我が治るまでは安になさって下さい」
「……お前も私の意志を否定するのか」
ようやく顔を覆っていた手が離れ、その目がを捕らえた。蝋燭の灯りで三成の瞳の中で怒りの色が揺れる。或いは絶望の色なのかもしれない。
握り拳を作っていた三成の手はの襟元を掴み、自らの方へ引き寄せた。締め上げられそうな感覚に一瞬恐怖を感じたが、彼の瞳を見るとそれは少しずつ薄れていった。
「誰も彼もがそうだ!家康の下に集い、私を裏切る!お前も……」
言葉は続かなかったがの耳には続きが聞こえたような気がした。今の彼の目に自分はそんな風に映っているのだろうか。自分は彼を不安にさせているのだろうか。
はそっと三成の頬に両手を添えて、呪文のように何度も何度も彼の名前を呼んだ。
このような瞳の色はまだいい。そこにどんな負の感情が見えようとも構わない。一番恐ろしいのは三成がいなくなってしまうこと。
ただの言葉で安心できるような人ではないと分かっている。言葉は絆を示そうと思えば容易くできるが、反面とても脆く人を傷つける。
こつんと三成の額に自分の額を合わせ、間近に見える瞳から逸らさない。今だけでもこの瞳が自分だけを捕らえているのだと思うと、言葉に表せない幸福感でいっぱいになった。
「誓います。絶対に裏切りません。何があろうと貴方について行きます」
三成は何も言わずに同じようにの瞳を見返す。何を考えているのだろうか。は暫くそのままの体勢でいたが「少しよろしいですか」と言って、襟元にあった三成の手をそっとほどいた。すると先刻まで強く掴んでいた手はすんなりとに従った。
ふっと微笑み、おもむろには帯に手をやる。懐刀にまともに触れたことがあるのは祝言を挙げた日と着替えの時くらいだ。それはほんのりと布越しに人肌の温もりを帯びている。
殺気も何もないものだからが鞘を抜くまで三成は何の反応もできなかった。ゆっくりとした所作は茶を淹れる時と似たようなもので、の腕に赤が引かれるまで見入ってしまったのだ。
「何を……何をしている!」
白い肌から真っ赤な血が流れ出すのを見て、三成は咄嗟にの手の刀を奪い取って投げ捨てた。畳にほんの少しの赤い滴が垂れたがこの部屋でそれを気に掛ける者はいない。
血が出た方の腕を掴むと少しだけ震えていた。慣れないことをしたせいでは顔を青くしたが、三成はそれ以上だった。
「お、思いの外、痛いものですね……」
「この、馬鹿者がっ!」
が傷つけた腕は三成が怪我を負ったのと同じ腕。自らを傷つけたにも、それを見ていたのに止められなかった自分にも無性に腹が立った。三成は側にあった手拭いを水桶に浸けるとの傷口の血を拭った。じわりと布に滲みていく赤は自分が傷を負った時とは別物のように感じた。震えているのはだけではなかった。
手拭いを裂いた三成は不器用な手つきで傷を覆う。そんなことをさせてしまってからの胸の内に後悔の波が押し寄せてきた。
「祝言を挙げた日のことを覚えていますが?」
自分の腕を掴んだままの三成の手にそっと手を重ね瞳を伏せた。突拍子もないことを言い出したが三成が今どんか顔をしているのかは目を閉じているため分からない。独り言のようにぽつりと零したその言葉は、質問のつもりで言ったわけではなかった。
脳裏に浮かぶあの日の姿。こんなに幸せなことがあってもいいのだろうかと涙を流せば、化粧が崩れるから泣くのは止めろと隣に並ぶ三成に言われた。その言葉でさえにとっては幸福の一つだった。
「あの時、どこまでもお供しますと言いましたが、実はその覚悟はとうの昔からできているのですよ」
具体的にはいつから、とまでは言わずにそれとなく仄めかした。ここで全て言ってしまうのは勿体無い。なんとなく感じ取ってくれたら、それでいい。何事もはっきり言わなければ分からない三成のことだから伝わっていない可能性の方が高いが、それでもいい。
閉じていた目を開いて顔を上げる。もうそこには怒りを帯びた色はなかった。
「嫌だと言われても無視されても、私はしつこく貴方について行きますよ。黄泉路へ渡った後だって、来世へだって」
三成の目にはが随分落ち着いているように見えたが、実のところ彼女に余裕などなかった。死に急いでいるように見える彼を死なせたくなくて、けれども自分の欲を押し付けることもできなくて。本気で嫌われたら泣いてしまうかも、なんて考えている。言った後で後悔してばかりだ。
何も言わない三成は視線を腕へと落とした。何かを堪えているかのように音にならない声が漏れる。そして感情を押し殺したような低い声を絞り出した。
「何故こんなことをした」
「……答えたら怒りますでしょ?」
「それはお前の返答次第だ」
「絶対怒るでしょうから、怒らないと約束していただけるなら言います」
怒鳴られた後だからかそれを予想しているからか、は恐る恐る様子を伺う。叱られる子どものようだと三成は呆れた。
どうにか時間をかけて自分を納得させて了承したが、それでもが躊躇うので今度はイライラした口調で催促した。彼女の眉が下がったのを見て少しばかり後悔する。
「そのですね、斬られた痛みを少しでも理解できるかと思ったのです」
「……やはり貴様は阿呆だな。自傷行為などと比べて結局何が得られたというのだ。みっともない傷しか残らないだろうが」
蔑んだ言葉とは対照的に瞳は哀感に満ちている。その言葉をそっくりそのまま三成に返したくなったが口を閉じておくことにした。
「二度とこんな馬鹿げたことをするな」
「はい……流石にやり過ぎたかと反省しております。ごめんなさい」
謝罪の言葉が完全に叱られた子どものようだったが三成はそれを咎める気にはなれなかった。これ以上の血を見なくて済むのであればそれで十分だった。
どちらが先に動いたのかは分からずとも自然と抱き合う形になる。三成もも自分を落ち着かせるために。緩やかな腕の締め付けが心地よかった。
三成の胸に頭を預けていると、とくんとくんと音が聞こえる。この鼓動がよく聞こえるようにと彼の背中に腕を回して引き寄せた。どちらのものか分からない震えは未だ止まらない。
触れると確かにそこに存在して波打つ脈も肌を通して伝わってくる。いつかこの音が聞こえなくなってしまう日が来るのだろうかと考えた途端、我慢していた涙が頬を濡らして三成の着物に染みていった。