雨だれのプレリュード






 昨日の夜から静かに降り続けている雨のおかげか、久しぶりにぐっすり眠ることができた。
 布団の中で寝返りを打って時計を見ると、起きる予定だった時間の10分前。いつもならコンサートの次の日は昼まで寝てしまうのに、今朝は珍しく寝起きが良い。
 ベッドから出てカーテンを開けても曇り空のせいで部屋は明るくならなかった。テレビをつけて天気予報を確認してみると、この国は今日一日ずっと雨らしい。豪雨でないのならこれくらいの雨で飛行船は欠航しないだろう。
 顔を洗ってこようとのろのろとした足取りで洗面所に向かった。出発まで時間はまだまだある。

 午後2時。身支度を整えて荷物を確認する。スーツケースの中身と鞄の中を3回は見直した。財布や服を忘れても楽譜だけは絶対に忘れてはいけない。
 姿見の前に立ち、服や髪を見て変なところがないかを見た。依頼主は自分の格好なんかに興味はないだろうが最低限の清潔感は保ちたい。
 脇の机に置いてある黒い手袋を身につけもう一度姿見を見る。これでいつもの自分になった。


 空港へ着いてから搭乗時間までの間、遅い昼食を済ませようとレストランに入った。
 目的地に着くのは明日の夕方頃なので今のところ予定通りだ。長時間飛行船に乗るのは疲れるのであまり好きではないが、他に移動手段もないので仕方がない。
 食後のコーヒーが運ばれてきた時、携帯電話が鳴った。マナーモードにし忘れたことを思い出し、急いで電話に出ると無機質な男の声が聞こえてきた。ほんの少しだけ顔が引きつる。

「……はい。お迎えですか、分かりました。はい、ありがとうございます。それではまた明日」

 たったそれだけの業務連絡だが、はこの電話の向こうにいた男が苦手だった。向こうも恐らく自分を嫌っているだろう。
 それでも仕事は仕事と考えて今まで割り切ってこられた。それに向こうに着いたら程なくしてヨークシンへ飛ぶのだ。体調はもちろん精神も整えないと演奏に支障が出てしまう。

 マフィアという存在に縁がなかった生活が随分昔のことのように思える。
 ずっしり構えたボスと強面のボディーガード達。纏う黒い雰囲気や染みついた煙草の臭い。存在だけでも圧倒されてしまいそうになったのは昔の話で、今ではすっかり慣れてしまった。
 上手く事が運べば自分に有利なのだ。後ろめたいことをしているわけではないし、彼らの機嫌を損ねない限り自分の身の安全は保障されている。
 音を一つでも外すことは許せない。それは舞台の上の話で、自分の自尊心の問題だ。もっと練習して次に活かせばいい。
 けれども同じ舞台に見立ててもマフィアが相手では話が違う。やり取りの失敗の先に次なんてものはない。彼らとの短い付き合いの中でもそれだけはよく分かっていた。


 飛行船は時間通りの時刻に目的地に到着した。これからが向かうノストラード氏の邸宅までは車で2時間といったところだろうか。
 今朝電話で話した男――ダルツォルネは自分の代わりに部下が迎えに行くと言っていた。
 しかし到着してから気が付いた。部下の特徴を教えられていない。前回迎えに来てくれた部下とは違う人物が来ることも考えられる。
 ダルツォルネにもう一度電話するべきだろうか。ターミナル出口付近の椅子に腰かけ、携帯電話を取り出そうとした時、目の前が影で覆われた。見上げると金髪の青年がを見据えていた。

さんで間違いないだろうか」
「はい」
「ノストラードファミリーの護衛をしているクラピカと言う者だ。迎えに行くようリーダーから指示を受けたのでご同行願いたい」

 と歳はそう変わらないように見えるが、雰囲気は年相応のものではない。
 クラピカと名乗った青年の後ろから見覚えのある男が近付いてくる。は確かスクワラだったかな、とは記憶を辿った。知っている相手と言ってもほとんど会話をしたことがないので、ただの知人を通り越して顔見知り程度である。

「お久しぶりです。わざわざお迎えしていただいてありがとうございます」
「ああ、荷物はこれだけか?」
「はい」

 スクワラはの荷物に目線を送った。スーツケースに収まっているのは着替えや化粧道具などの泊まりに必要な物。そしてが斜め掛けしている鞄には大切な物が入っている。
 それじゃあ行こう、とスクワラは先に歩いて行った。もそれについて行くためにスーツケースを引っ張って行こうとしたが、クラピカの方が早かった。

「大丈夫ですよ。自分で運びます」
「貴方はボスの客人だとリーダーから聞いた。気にすることはない」
「いいえ、いいんです。お心遣いありがとうございます。いつも自分で運んでいますから。それに、この中には一応大切なものが入っているので」

 本当は大したものは入っていない。しかし以前楽譜を盗まれたこともあったので自分の物は自分で持ち歩きたかった。親切心による好意的な態度であっても必要以上に警戒してしまうのだ。考えすぎだと言われても仕方がない。
 クラピカはほんの少し考えた後「そうか」と言って身を引いた。スクワラも以前同じようなことを言ってくれたことがあったが、その時にもやはり今と似たようなやり取りが行われた。

「失礼なこと言ってごめんなさい」
「いや、気にしないでくれ。こちらこそ無礼を働いてすまなかった」

 クラピカの澄ました顔は崩れることはなかった。お互い少し離れた距離を歩き、無言で駐車場へ向かう。
 先刻の彼の態度や表情を思い出した。真面目そうな人なのにどうしてマフィアの護衛なんかしているのだろう。そんなことを気にしても仕方のないことだが、護衛でこういうタイプの人間を見たのは初めてだった。見た目はもちろん、雰囲気も含めて。
 駐車場に着いてからスーツケースを荷台に乗せて車に乗ると、運転席にいたスクワラがバックミラー越しにを見た。

「今日の分と合わせてヨークシン行きの分も振り込んでおく。後で口座を確認しておいてくれ。残りの分は向こうでの仕事が終わったら振り込む」
「わかりました。ありがとうございます」

 いつものことながら多額の報酬をぽんと出せてしまうマフィアを、ある意味では尊敬していた。ピアニストとしての仕事をして報酬を貰うのはありがたい。
 車は空港の駐車場を出て屋敷に向かう。こちらの国では雨が降っていないようで、綺麗な夕日が街を照らしている。運転席と助手席に座る男達は仕事の話をしているのか、には分からない話が飛び交っていた。
 この国には何度も訪れているし、今から向かう場所も通い慣れた場所だ。コンサートで世界中を飛び回っているのと同じで、数多ある国のうちの一つでしかない。
 しかしどういうわけかこの仕事は慣れというものがいつまでも身につかない。体は自然体なのに心だけがそれに追いつかない。
 いつもなら雨なんて鬱陶しいだけだと思うのに、乾いた夕日を見ていると何故か今だけは雨が恋しくなった。


Raindrop - F. Chopin