部屋の宿泊者名義を変えた後、クラピカはロビーへ降りて行った。深夜ともなるとロビーに人は全くおらず、建物の中では外の喧噪も聞こえない。だが一歩外に出れば嫌でも聞こえてくるのだろう。夜中のうちに騒動が収まるはずがないことは目に見えていた。
静かな空間で目を閉じて試案に耽る。旅団のこと、ボスのこと、オークションのこと――考えをあちこちに巡らせているはずが、結局は旅団に辿り着く。
ふつふつと沸くこの感情は最早怨念に近い。それを自覚する度に他のことを考えようとするのだが、一人でいるうちに静められるはずもなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。ロビーのソファに座ってしばらく、自動ドアが開く音が聞こえ、目を開けた先にがいた。電話をかけようとしているのか携帯電話を見ながら歩いてきたが、前方を向いてやっとクラピカに気が付いた。
「待たせてしまいましたか?」
「いや、私も今来たところだ。道中は大丈夫だったか?」
「少し騒がしかったけど、道路は大丈夫でしたよ」
「そうか。それなら良かった」
幸いなことにが滞在しているホテルはオークションハウスから離れた場所だった。とは言え、こうして呼び寄せてしまったせいで彼女の安全は脅かされつつある。それを分かっているのかいないのか、には慌てた様子も怯える様子も見られなかった。
「ダルツォルネに代わり私がリーダーを継ぐことになった。改めてよろしく頼む」
具体的にダルツォルネがどうなったとは言わなかったが、はなるべく笑顔で「こちらこそ」と返した。
マフィアの護衛のリーダーとしてクラピカは若い。ただし腹に抱えた何かはこの職種に相応のものである。内に抱えるものが何であれ、仕事を通して関わる相手に現状を伝えないというのはいかがなものだろうか。マフィアほど修羅場をくぐっているわけではないが、にもそういった勘はよく働いた。
「今後ダルツォルネさんに会う機会はあるでしょうか」
クラピカに対する質問ではなく自問に近い。前を向いてそんなことを言うのだからはじめから答えは求めていないのだ。
「貴方がリーダーなら、これからの接し方も変えた方が良さそうですね」
「変える必要はない気もするが……心許ないリーダーで申し訳ない」
「逆です。そうではないから変えるべきなのかと」
冗談のつもりかと横目でを見ればそんなつもりはないのだと見て取れた。どういう意味かと訊ねる前に「そんなことより」と遮られた。
「お嬢様の様子はいかがですか?」
「起きて君を待っている」
そういう意味でが聞いたのではないということは分かっている。しかしそれ以外にクラピカが答えられる言葉が見つけられなかった。会えば分かると言ってしまえばよかったのかもしれない。
無言のままエレベーターから降りて、客室が並ぶ廊下へ出てようやく部屋の前まで辿り着いた。夜中だと言うのに中から楽しそうなネオンの笑い声が微かに聞こえてくるのはの予想通りだ。文字通り類は友を呼んでいる。
「なるほど」と一言、クラピカに答えをもらってから随分長い後に呟いた。呆れたように笑みがこぼれたが、ネオンがそういう人だと十分承知している。
今夜起こったことを考えると部屋への一本道が遠く感じた。のろのろと歩いて行きたい気分のとは対照的にクラピカの歩みは速い。まるで何かから身を隠さねばならないと全身で示しているようだった。
「この部屋にボス達が避難している。君もこの部屋から出ないように」
「分かりました。貴方はどうするんですか?」
「少し確認したいことがあるので後ほど部屋に戻る」
その目でが部屋に入ることを見届けてから行くつもりなのだろう。クラピカはそれ以上何も言わず、を目で部屋の中へと追いやった。
◇
遊び疲れたネオンは既にベッドの上ですやすやと寝息を立てている。
今この部屋には眠るネオンと散乱した衣服を畳む侍女達としかいない。部屋を出た先の廊下にはスクワラが警備として立っているはずだ。あれからクラピカは一度だけ部屋に戻って来たが、何人かの護衛達を連れてすぐに部屋を出て行った。
一緒に寝ようとネオンがに言ったのでとりあえず了承した。人がいると眠れなくなる性質であるのだがそれは言わなかった。案の定ネオンを寝かしつけるような形になってしまい、今ではすっかり目が冴えてしまい朝日を眩しそうに眺めている。
部屋に放り出されていた沢山の本の中から適当に選び、暇つぶしにそれを読みふけっていた頃だった。ドアをノックした後、遠慮がちにクラピカがドアから顔を覗かせた。
「、少しいいだろうか」
「はい」
音を立てないようにそっと部屋から出てクラピカの後について行く。廊下に出ると疲れた顔をしたスクワラが壁にもたれかかって立っていた。
そこから離れて二人だけになった時、ようやくクラピカは歩みを止めてを見た。
「ノストラード氏は今日の夕方に到着する。君も本業の仕事があるならそちらを優先させて欲しいと言っていた」
「よかった。私も今日の夜は仕事があるので昼前には帰らせていただこうと思っていました。お嬢様が眠っているうちに帰ることになりそうですが……」
「分かった。それで構わない」
「ありがとうございます。そうだ、一応連絡先を伝えておきます。ノストラード様から何かご指示がある場合は連絡して下さい」
その役目を担っていたのはダルツォルネだったが彼はもういない。安否がはっきりしないとクラピカは言っていたが、ネオンの口ぶりは彼はもう死んだと言っているようなものだった。
ダルツォルネを嫌っていたわけではないが死んだと聞かされて悲しむほどの情も持ち合わせていない。つくづく薄情な女だなと自嘲した。
確認した後「それでは」と言って踵を返す。しかしすぐにクラピカが何かを思い出してを引き留めた。
「確か君は、毎月ボスに占ってもらっているそうだな?」
「はい」
「君の占いには何と書かれていた?」
その質問の意図が分からず首を傾げる。賊を捕らえるための情報が載っているとでも思っているのだろうか。しかしの予想とは異なる答えが返ってきた。
「内容によっては君も事件に巻き込まれる可能性があるだろう」
「……?」
「完全にとは言えないが多少なりとも回避する術があるのならそれに従うべきではないか?」
「あ、そうか。まだノストラード様から何も聞いていないんですね」
「何を?」
確かにについてはまだ何も聞かされていない。電話をしただけでまだ顔を合わせたこともないボスは詳しいことは何も言っていなかった。そのせいでが何故不思議そうにしているのか分からなかったが、既に本人は納得したように腑に落ちた顔をしていた。
「それについては貴方の用事が済んだ後にゆっくり食事でもいただきながら話しましょう」
「……この流れでどうしてそうなるのか甚だ疑問だ」
「約束を取り付けておけば貴方はきっと守ってくれるでしょうから」
今までただ大人しく従っていただけのが初めて要望を出した。個人的な頼みではなく仕事上の依頼に近いものを感じたが、彼女をどれだけ信頼するべきか、その判断材料は少ない。作ったような笑顔ではなかったが、その裏に何か思惑があるように思えて仕方がない。
それにしても接し方を変えるとはこういう意味なのだろうか。そうだとしたらその意図が分からない。
「あ、でもダルツォルネさんしか占いを読んでいないんですよね。ノストラード様には“いつもと同じだった”と伝えておいてくれませんか?」
「よく分からないが……わかった。伝えておく」
「よろしくお願いします。ところで貴方はどちらに行かれるんですか?」
「少々遠くへ。ノストラード氏が到着する前には戻る」
これから同胞の敵討ちをしようなどと言えるわけがない。詮索無用だとばかりにクラピカはに背を向けた。知らぬうちに溢れてしまいそうな闘志を悟られるわけにはいかないのだ。
Ich hatte viel Bekummernis - J. S. Bach