気高い幻想






「そういえばさん、貴方に関する噂があるのはご存知ですか?」
「噂?また新しいのが増えたのかしら」
「おや、他にもあったんですか?是非聞いてみたいですね」

 ほんのりと室内を照らす照明の下、ゆったりとしたメロディが流れる中で記者が目を輝かせた。せっかくいい気分で穴場のカフェを堪能しているのに、この場の雰囲気にそぐわない、ぎらついた記者魂が宿った目だけはいただけない。今度はプライベートで一人で来よう。
 コーヒーを机に置いて「それで噂とは?」とが訊ねると、記者は身を乗り出してわざとらしく声を潜めた。

「貴方が実はマフィアの組長の娘だという噂ですよ」
「まぁ」
「で、実のところはどうなんです?」
「それが本当だとしたら、露見しないよう私はきっと貴方を今日の帰り道に始末するように幹部に言いつけるかも……」
「あはは、それは怖い。それだけは勘弁していただきたいですね」

 おどけたおかげで場は和んだ。自分が本当にマフィアの娘ならば宣言通りにしていたのだが、お互いに冗談だとわかっている。

「噂の発信者には申し訳ないけれど私は天涯孤独の身ですから」
「そうでした。失礼なことを聞いてすみません」
「私ってそんなに怖く見えるのかしら。こんなに人畜無害な顔をしているのに」
「自分で言いますか。でもマフィアの扱いには気を付けて下さいよ」

 まるで火を扱う時に注意をするような言い方だった。普段マフィアと関わらない人間からすれば似たようなものかもしれない。
 それでもこの記者はがノストラードファミリーと関わりがあることを知っている。軽口を叩けるくらいならばこの男もマフィアと繋がりがあるのかもしれないが、それは聞くつもりはない。こうして話せる距離感を壊す気は更々ないのだ。

「では本日の取材はそろそろお開きとしましょう。今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう。いつも面白い話をしてくれるから仕事であることを忘れしてしまいそうです」
「そう言ってもらえると嬉しいですねぇ」

 馴染みの記者は顔に喜色を浮かべた。細かなところまで気を遣い、相手の好みに合わせた店を選んでくれるよい仕事相手だ。悪い男ではないのだが、裏に何かありそうな雰囲気を隠しきれていない。
 一つの仕事を終えたが、はまだこの居心地のいい店に居座りたい気分だった。撤収作業をしている記者達をよそにメニューを片手にぼんやり座っていると、記者が思い出したように声をかけた。

「あ、そういえば先日カリーニさんのチェロが高額落札されたそうですね」

 僅かにの顔が強張ったが幸いそれに気づく者は誰もいなかった。
 かのチェリストは数年前に演奏家を引退した。現在は故郷で妻と暮らし、音楽教室の先生として活動を続けている。彼の演奏会には何度か訪れたことがあった。

「ヨークシンで?」
「はい、楽器専門の競売ではなかったみたいですが。もったいないですよねー。だって落札したのは外科医だったそうですから」

 演奏するつもりのない人間が価値ある品として楽器を購入するのはもったいない。コレクションに加え仲間に自慢するための飾りでしかないのだから、彼の言っていることは概ね正しい。
 カリーニは生活難で自分の楽器を売ってしまったのだろうか。彼とは交流があるので毎年決まった時期に彼からのもとに葉書が届く。今年は写真付きで「妻と世界一周旅行をしています」と書かれたものが届いた。金に不自由しているような生活はしていないはずだ。

「外科医なら競り落とす品はナイフにしておけばよかったのに」
「でもそんな医者がいる病院なんて行きたくないですね」
「切り開くのは上手かもしれませんよ?どこかの国の切り裂き魔みたいに」
「なんとかリッパーですか?要らないところまで切り取られそう……」

 記者の男がこれまたわざとらしく身震いしたので、顔の緊張が少しだけほぐれた。これだから憎めないのだ。
 再びメニューに目を戻したが、カリーニがチェロを手放した理由を考えるばかりでメニューの内容は頭に入ってこなかった。
 巨匠と呼ばれる偉大な音楽家たちの中でも、極稀に生きているうちに愛用していた楽器を手放す者がいる。大抵は亡くなってからその価値が跳ね上がるのだが、そうしない理由を考えてみた。
 価値を上げるために殺されるのを回避したのではないか――浮かんだ答えはそれだけだった。


 クラピカと別れてからそれなりに時間は経ったが、こう忙しいとマフィアや襲撃事件の方に気を回す余裕がない。死ぬ恐れがあると言うのに呑気なものだな、とソファに倒れこみそんなことを思った。
 仕事の打ち合わせとスケジュール調整、それから雑誌の取材だけで丸一日が潰れた。殆ど寝ていない状態だったが仕事に入ると脳が勝手に切り替わってくれる。それでもそれが終わると力が抜けてしまうのか、ソファに横になったまま動きたくなくなってしまう。
 このまま沈んでしまいたいくらいだ。眠気には慣れているはずが、今日は眠すぎる。目は時々忘れたように瞬きをするだけで、体だけが死んだように動かない。それが不気味だったのか、見かねたマネージャーが心配そうな顔をしてを覗き込んだ。

、今日はもうホテルに帰って休みなさい」
「そうしたいんだけど、ちょっと買う物があるからそこに寄ってからにするわ」
「必要な物があるなら私が後で買って届けに行くから」
「ううん、そうじゃないの。自分ので買わないと意味がないから……」

 要はの名義が要るということである。その言葉の意図でマネージャーの顔が一層不安で歪んだ。目が冴えているとは言え睡眠不足には敵わず、先ほどからぼんやりしている今のに彼女を気遣う余裕はない。
 今朝方、先日の演奏会を訪れた企業役員の男と雑談を交わした。世間話をしている分には悪くない相手だった。嫌味もなく視野も広い。唯一問題があるとすれば彼の趣味だけだ。
 先日起こったオークションハウスの事件を恐れてはいたが、欲しい物を競り落としたい気持ちは変わらないらしい。今回の競売品には、彼のような嗜好の人間が欲しがる品が山ほど出品されているのだそうだ。嬉しそうに語る彼から沢山の情報を得ることができた。
 の交友関係を心配しているマネージャーにはいつも申し訳ないと思っている。彼女に教えていないことや隠していることも沢山あるのだ。

「ねぇ、マフィアと関わるのは止めなさい。きっとろくなことにならないわ」
「そうね。忠告ありがとう」

 いつもなら笑って言えたはずだが、今は自分を心配してくれる相手を気遣う余裕さえない。声からも覇気が失われていくのが分かる。このまま横になっていてはまずい。
 重石が乗っているのかと思うほど体が重かった。呻きながらのろのろとソファから起きて帰り支度をする。脳を覚醒させるように頭を振って最後にマネージャーに笑いかけた。

「大丈夫。危険なことは絶対にしないから。本当よ」

 などと言いつつはサザンピースでカタログを購入しに行った。
 どうせここも期待外れだろうと半ば諦めている。受付を済ませ説明を受けたが、もとよりはオークションに参加するつもりなどなかった。
 ネオンが読みふけっていたカタログは主に趣味の悪い連中が参加するようなものばかりだ。他にもそういうオークションはいくつかあるので、それらのカタログを入手することは難しくはない。が購入しなくてもネオンに言えば喜んで見せてくれるだろう。
 現に今朝会った例の男は快くに複数のカタログを見せてくれた。興味のあるふりをして話を聞くのは簡単なものではない。

「お金持ちってどうしてこういう物に価値を見出すのかしらね」

 ふらふらとホテルに戻ってから購入したカタログをベッドの上に広げた。そのまま自分もベッドに沈むと眠気が襲ってくる。
 聞けば聞くほど、知れば知るほどコレクターの思考が理解できない。口を開けば己の命よりも競売品が大事だというように語るが、心根では賊を恐れている。見栄の張り合いなんかしている場合ではないだろう。
 結局はカタログを開いたまま睡魔に負けてしまった。鞄の中に入れっぱなしの携帯電話が鳴るのは半日後のことだが、それまで死んだように眠り続けた。


Nobilissima visione - P. Hindemith