額の汗をタオルで拭い、机の上に置かれているペットボトルの水を飲んだ。ヨークシンでの公演はこれが最後だ。
ふう、と息を吐いてドレスの胸元に手を突っ込んで黒いパスケースを取り出す。今夜開催されるオークションの許可証をしまっておいたのだ。いつ誰がどんな目的で楽屋に忍び込むとも限らないので、コンサートの最中でも懐にパスケースを忍ばせていた。
しかし全く心が躍らない。オークションにも人体にも興味がないからだ。これほど大切に扱ってもオークションが閉幕すればゴミ同然になる。
せめて化粧を直してから向かいたいがそんな時間があるだろうか、と時計を睨んでいると、マネージャーが部屋に入ってきた。もうそんな時間だっただろうかと思いきや、彼女の顔を見てそうではないと気づく。
「、貴方に会いたいという子が来てるんだけど……」
「私に?誰?」
「貴方と同じくらいの歳の女の子なんだけど、に会わせてって」
を訊こうかと思ったが予想できる人物は一人だけである。何故と思ったが、断ったら面倒なことになりそうな気がした。
「多分知ってる人だから通してくれる?」
「いいけどゆっくりしてる時間はないわよ?」
「わかってる」
訪問者を呼びにマネージャーは楽屋の外へ出た。
友人と呼べる相手はごく少数だ。彼らは音楽の世界でもマフィアの世界でもない他の場所の住人なので、わざわざの公演を見に来るような友人はいない。干渉しないからこそ友人でいられるのだ。
だとしたらその訪問者は、一体何の用でここに来たのかとに緊張が走る。
ノックもないうちにドアが勢いよく開いて、予想していた通りネオンが楽屋に飛び込んできた。
「!」
突撃するような形でネオンはにぎゅっと抱きついた。いつもと違って髪は結い上げていないし、服も薄手で寒そうだ。
気づかれないうちにと思い、机の上のパスケースをこっそり腰の後ろについたリボンの部分に隠した。
「お嬢様、どうしてこんなところに?国に戻られたと聞きましたが」
「逃げてきたの!」
褒めてほしいと言わんばかりの笑顔に、はどう反応していいものか考えあぐねた。結果困り笑いしかできなくなる。
理由を尋ねると更に得意そうに語った。
父親の言うことに従い、帰国前に機嫌よく買い物をしている単純な娘を演じただけだと言った。ネオンが馬鹿な少女ではないことはも知っていたが、護衛さえも撒いてくるとは思いもしなかった。
自分の腰にネオンの腕が絡んできて逃げ場がない。離れてほしい理由はパスケースの存在がばれる心配以外にもある。こういったスキンシップは苦手なので思わず眉根が寄った。
「一緒にオークション会場に行こ!私が競り落とす物を見たいって言ってたよね?」
冷や汗が背中を伝った。幸い、体に走った緊張はネオンに気づかれることはなかった。
あくまでも品物自体を見たいという意味で、競り落とす瞬間を見たいわけではない。その上それは社交辞令として言っただけだ。が本心で言うわけがない。
それにオークションに参加することは誰にも伝えていない。マネージャーにすら教えていないことだ。
が参加することを知った前提で誘っているわけではないのだという直感はあったが、これからの自分の行動を見透かされたようで怯んでしまった。
体を包み込んでいたネオンの両腕をそっと外して、はなるべく残念そうな表情を作った。
「申し訳ありません、お嬢様。まだ演奏が残ってるんです」
「嫌!一緒に来てよ」
「そうしたいところですが仕事なので」
「やだ、行こうよ!」
無理矢理連れて行こうとネオンはぐいぐいとの腕を引っ張る。抵抗してこちらも力を入れるとネオンの爪がの腕に食い込んだ。
「本職を優先させるとノストラード様との契約で」
「そんなのどうだっていいよ。パパは嘘つきなんだから!それに、約束したよね?ヨークシンで一緒に遊ぼうって」
「仕事が終わった後でしたら……」
「今すぐじゃないと嫌なの!」
無理なことは事前に無理だといつもはっきりと言っているのだが、今日のネオンは全く引く気配を見せなかった。
護衛の連中はいつもこんな面倒なことに付き合っているのか。初めて彼らの苦労の一部を担い理解した。
子どもじゃないんだから、と諭して言うことを聞くような相手ではない。きちんと叱る大人が周りにいないのだから強く言っても無意味かもしれない。やってみる価値はあるが。
どうしようかと困り果てていると、ドアをノックする音が聞こえては慌ててそちらを向いた。恐らくマネージャーだ。
「、どうしたの?」
「なんでもない。ちょっと化粧を直したくて……お嬢様、痛いです」
「仕事なんかどうでもいいでしょ?今は私の言うことを聞いてよ!」
どうでもいいわけがないでしょう。流石にその言葉には腹が立った。
時間がない。どうしてこんな大事な時に厄介ごとが舞い込んでくるのかと、ライト=ノストラードと護衛の連中に文句を言いたい。
掴まれていた腕がより一層ぎゅっと強く握りしめられる。自分が強者であればこんな腕を簡単に振りほどけるのに。そう思えば思うほど悲しくなった。
「私たち友達でしょ?そうだよね?」
キッとした目つきでネオンがを見据える。友達とは、相手をこんな目で見るのか甚だ疑問だ。
うんと頷いて興奮しているネオンを少しでも落ち着かせるべきだ。頭ではそう分かっている。
けれど自分の仕事を軽んじられ、気の利いた言葉が思い浮かばない。代わりに正反対の思いばかりが沸々と湧き上がる。顔に出ない性格であることがこの場で唯一の救いだった。
貴方のことを友達と思ったことなんて一度もないと、言葉に出してしまえば今までの努力が水の泡になってしまう。だから心底残念そうな顔を見せなければいけなかった。
「ごめんなさい。自分の仕事を放り出して行くことはできません」
「……のバカ!もういい、一人で行く!」
大声で喚いた後、ネオンは部屋を飛び出して行った。呆然としていたは、のろのろと開け放たれたドアを閉め、深くため息を吐いた。
出て行った時、ネオンは涙を浮かべていたのかもしれない。
そうだとしても、どう考えても自分は悪くないのだからどうでもよかった。むしろ揉み合いになったせいでドレスの一部が台無しになってしまったことに文句を言いたい。
水を飲もうとペットボトルに手をかけ、蓋を開けた時に両方とも落としてしまった。カラン、と乾いた音がして水が床に溢れていく。
演奏とネオンの来訪の両方に疲れて手に力が入らなくなってしまったのだろうか。そんな風に思ったが、襲ってきた感情は別のものだった。
今まで築き上げたものが、たった一晩で失われてしまうかもしれない。
ペットボトルを拾い上げようと屈んだ時に伸ばした手を見て、ようやく自分が震えていることに気が付いた。
Amore traditore - J. S. Bach