悪魔のトリル






 収集品としての人体を見ても何とも思わない。死んでしまったものに対して、今では恐怖を感じなくなった。
 今では、と言うくらいなのだからかつてはそうではなかった。醜い社会に身を落とす前はまだまともな感覚を持っていられた。
 ネオンのコレクションを含め、複数見てきたのだ。薬漬けにされた五体や臓器から目を逸らし、見た目だけでは何か分からない部位――例えば皮膚や髪はそれだと知れば吐き気がこみ上げた。
 ガラスケースに入れられた音楽家の手も見たことがある。液体の中に浮く手は、生前は楽器や指揮棒に触れていたのだ。だが死んだ後はただの飾り物になる。それだけは目を逸らさず、憐憫の情を抱かずにはいられなかった。
 耐性がついたと言えば聞こえはいい。不快だと思ってもそれ以上のことは思わない。彼らはそういう人間なのだと蔑視することで自分を保ってこれた。
 だからこそ今の自分に苛つき、吐き気がする。軽蔑するべき人体収集家から死にも似た宣告を下された。それに対して危機感を覚えるなど、表面上で媚びへつらうよりあまりにも醜い。

「どこまで?」
「セメタリービルまでお願いします」

 タクシーの運転手は少し困ったような顔をしてから、の目的地へと向かうことにした。
 きっと彼の目には、具合が悪いのに無理をしてでもオークションに参加したがる馬鹿女、という風に映っていることだろう。だが誰に何と思われようが構わなかった。
 そんなことより、後悔している自分が許せない。ヨークシン最後の公演は最後の最後で最悪な形で終わった。自分のひどい演奏も、それに対して拍手喝采を送る耳が悪すぎる客も最悪だった。
 だが全ての客がそうだとは思わない。鑑賞に来た批評家は厳しく評するだろう。それで自分の評価が落ちてしまったらヨークシンに来た意味がないのに、肝心なところで台無しにしてしまった。
 ネオンのせいとは言わないが、少なからず彼女の影響はあった。だが一番の原因はそんなことで弱くなった自分のせいだ。
 ぎり、と唇を噛む。血の味がしたが気にしなかった。どうせ口紅の赤のせいで目立ちはしない。
 同時にこれでもかというくらいに手を握りしめる。わなわなと悔しさで震えても、手袋の上からでは自分の手は傷つかない。手袋なんかなくても念のせいで傷一つつかない。こんな風になってしまった自分の手とその原因を恨めしく思った。


 会場に着くなりロビーのソファに座り込んだ。辺りにこちらを気にするような人間はいない。それを確認して屈んで顔を覆った。
 あとは先日参加証の手配をしてくれたあの男に会うだけ。そして仲間の収集家を紹介してもらえたら尚いい。人脈を広げる目的でここへ来たが、そこへネオンが現れたら厄介なことになる。
 鉢合わせて説明するのも面倒だし、何よりネオンの機嫌が直っているとは思い難い。さっきのような調子が未だに続いていれば、今度は自分の方が我慢できなくなりそうだ。それが一番まずい。
 ――本当にそれが一番まずいのだろうか。自分がこんなにも葛藤しているのはそれが原因ではない。分かっているから否定したくなる。悔しくてたまらない。

「どうしました?」

 聞き慣れない声に恐る恐る指の隙間からその声の主を覗いた。
 額に包帯を巻いた青年だ。黒い瞳が心配そうにこちらを伺っている。その男はわざわざ床に片膝をついて、ソファに座るの顔を覗き込んだ。側から見れば紳士的な格好だ。

「気分が優れない?」
「いえ、少し疲れているだけですから大丈夫」
「でも顔色が良くないな。……そうだ、ちょっと待ってて」

 立ち上がった男は早足でどこかへ行ってしまった。それを目で追うわけでもなくは再び俯いた。
 これからどうするべきなのか考えなくてはいけないのだから、誰も構わないでほしい。正常に頭が働く状態ではないからどうすべきかなんて自分でも分からないのだが、とにかく一人でいたかった。
 そういえば、とネオンの占いが頭を過ぎった。
 このオークションに関われば死ぬ、という内容ではあったが、参加すれば死ぬという意味ではなかった。人との関わり方、接し方、それらの選択肢を誤れば死ぬという予言だった。
 直接的な死を比喩する言葉は「悪魔」と「眠り」だ。悪魔とはここ最近のヨークシンを賑わせている盗賊のことだろうか。もし彼らが今回のオークションも狙っているのなら、この会場へ来た時点での死が確定しているようなものだ。
 もしくはネオンとの接し方を間違えたから死に近づいているのかもしれない。しかし逃げたいという気持ちにはならず、このまま死んでしまってもいい気がしてきた。だが「宝」である自分の手は死んでも失うわけにはいかない。
 そう思っていると不思議と時間を忘れるもので、先刻の男が戻って来るまでにどれくらい時間が経ったのかさえ分からなかった。

「待たせてごめん。これ飲んで体を温めるといいよ」

 はい、と差し出されたのは紙コップに入ったコーヒーだった。すぐには受け取らず、はコーヒーと男を二度見比べた。
 ありがたいとは思わない。むしろ今の状況では不信感すら抱いた。だが断るのも申し訳ない気がして受け取ることにした。

「……ありがとうございます」

 ここにいるということは彼もオークションが目的でやって来たのだろう。そんな人間がその辺りにいる女の具合が悪いからと言ってここまで構うのはおかしい。そんなお人好しとオークションの客は結びつかない。彼らは相反する人間でなくてはならないのだ。

「オークションはもう始まりました?」
「いや、まだみたいだ」
「そう……」
「気分が落ち着くまで座っているといいよ」

 受容も拒絶も面倒だからは何も言わなかった。男も去ろうとはしなかった。
 横目で男を見る。年上に見えるのにどこか幼さが残るような顔立ちだ。彼の視線はの手ではなく、の顔に向けられていた。奥底を覗き込まれているような目で見つめてくるのが何とも言えず、コーヒーの水面に視線を移した。

「後で客室まで送るよ。ベッドで休むといい」
「……」
「え、やだな。そういう意味で言ったんじゃないよ?誤解しないで欲しい」

 焦る男に軽蔑の視線をぶつけたのはまずかっただろうか。もしかすると本当に親切心で声をかけてくれたのかもしれない。
 だが自分のような女に声をかけたことが間違いなのだ。彼に思惑がなくとも、今の流れでそう考えてしまうのは仕方のないことだ。

「お節介なのね」
「はは、そうかもね。だって君、ひどい顔をしてるからさ」
「ごめんなさいね。次からは人目につかない場所で蹲ることにするわ」
「それも傷つくなぁ」

 ちっとも傷ついた様子がない男は笑みを浮かべた。少し申し訳なくなって微妙な笑顔で返してしまう。
 ひどい顔なのは否めない。同じことをクラピカにも言われたことがあるが、彼と目の前の男とでは言い方も含みも全て違うように思う。どちらかと言えば、クラピカのように気遣いらしい言葉がない口調の方が楽に感じる。だからと言ってこの男の気遣いが煩わしいわけではないのだが。

「顔色は少しよくなったみたいだね」
「それなら良かった。ありがとう、貴方のおかげね」
「どういたしまして。上で休まなくても大丈夫?」
「そこまでしなくても大丈夫。少し疲れていただけだから」

 仕事終わりにわざわざ着替えて化粧も変えて来たのだから、精神的にも肉体的にも疲労を感じていた。息を吐く間もなかったので、その時間を作ってくれたこの男には感謝している。おかげで吐き気も治まった。
 がコーヒーを飲み終えるのを待っていたのか、タイミングよく男は時計を見た。

「気分転換に散歩でもする?」
「……銃を持った警備員がうろつく外を?」
「まさか。この中だって結構見るところがあるんだよ。オークションが始まるまで一緒にどうかな?」

 この手の誘い文句を聞くのはこれが初めてではない。この男がどういう思惑でそう言うのかは分からないが、関わってもいいものかどうかほんの少しだけ躊躇った。
 占いの結果はまだ目に見えていない。ネオンとの関係がこじれたことだけは当たってしまたが、この後はどうなるか分からない。どういう道に進むのかを決めるのは自身だ。

「そうだ、名乗っていなかったね。オレのはクロロ」

 そう言って手を差し伸べてきた。男が手を差し伸べたのも、がその手を取ったのも、どちらの行為もひどく背徳的に思えたのは決して気のせいではなかった。


Il trillo del diavolo - G. Tartini