死の舞踏






 ガラス張りの大きな窓から見下ろす景色は都会の象徴だ。光るライトやいくつもそびえる高層ビルはヨークシンそのものを表している。
 タクシーに揺られて移動する間、考え事ばかりしていたので窓の外の喧騒には目もくれなかった。気持ちが落ち着いた今、耳を澄ましてみるとパトカーのサイレンが微かに聞こえた。そして銃声らしい音も小さく聞こえる。

「もしかして夜景は好きじゃない?」
「好きか嫌いかで言われたらそうかもしれない」

 つまらなそうな顔をしていたのだろう。悪いと思いながらも弁解はしなかった。

「そっか。女性は夜景が好きなものだと思っていたよ」
「人工的な光に感動しない女もいるの」

 仕事に関係ない相手にもは愛想を振りまく。後に偶然の再会を果たした時に後悔せずに済むからだ。だが普段の習慣をここでも継続する気にはなれなかった。
 金を稼ぐため、名を売るため、人脈を築くため。
 本当は全部どうでもいいが、目的のためなら仕方がないと割り切っていた。しかしその目的は果てしいなく遠い。
 ガラスに映る自分を見てしまったからそう思ってしまう。鏡を見るよりも更に奥底を見つめられている気分になる。
 ぼんやりしていると「あれ?」と小さくクロロが呟いた。何事かと顔を上げると、彼の手が目の前に伸びてきた。

「ここ、切れてるね」
「え?」
「唇。さっきは気が付かなかったけど」

 一瞬だけクロロの指が唇に触れた。悔しいやら悲しいやらよく分からないうちに強く噛みしめていたせいだ。
 クロロの指はすぐに離れていった。女慣れとも違うその行動に違和感を覚えたが、今が初めてではない。最初から何かがおかしい男なのだ。

「さっき強く噛んでしまったから」
「ふうん。癖?」

 口元を手で覆ったはぺろりと切れた部分を舐めた。乾いてしまったせいか、血ではなく口紅独特の味がした。
 不愉快に思うのは、この暗がりでどうして気が付くことができたのか、そしてどうして指摘してきたのかということだ。不審ではなく不愉快。不気味に思わないのが唯一の救いだった。
 夜景のことを訊ねてきたわりに、クロロも夜景を見てはいなかった。外の景色は見ているが、目に映っているものは夜景ではない。

「外は酷い状況なのに君は随分落ち着いているね」
「私がそんな風に見えるの?」
「そう見えるよ。ピンチの時ほど冷静になるタイプなのかな」
「別に今窮地に陥ってるわけじゃないでしょう」
「だって普通、こんな騒ぎの中女性が一人でこんな場所には来ないよ」
「それを言ったら貴方だって」

 同じでしょ、と言いかけて口を閉じた。
 薄々勘づいていたことだが、言葉にしてしまえば全てが終わってしまう気がした。
 占いの詩が頭に過る。時系列を考えると恐らく自分は今夜どこかで死ぬ。何をどうすれば死を回避できるのか、結局その方法は見つけられなかった。
 こうなってしまった原因は、不測の事態に取り乱した自分のせいだ。生じた隙やら焦りやら、いくらでも心当たりはある。そして得体の知れない男について行くという選択をしたのも自分だ。
 苛立っていたはずなのに、考え方を改めると気持ちが静まった。だからと言ってクロロに感謝しようとは思わないが。

「まぁここなら安全かもしれないけど……」
「無理ね。そうは思えない」
「どうして?」
「……についてきてしまったから、多分死ぬんじゃないかしら、私」
「ごめん、なんて?聞こえなかった」
「ううん、何でもない。ともかくそんな予感がする」

 絶対に死なない、という確信を今まで持っていられたのはこの両手があるからだ。
 だが今は全くそんな風に思えない。そう思う気持ちの裏には、この手にかかった念を解く術を持つ誰かが近くにいる、という期待に似た感情が隠れている。
 知り合ったばかりの怪しい男にそれができるのだろうか。手袋を外して見せれば、今までの手を狙ってきた数多の狂人と同じ顔になるかもしれない。そうならない保証はどこにもない。
 あくまでも先刻知り合ったばかりの二人だ。その関係を弁えてとクロロは友人とも恋人とも違う距離を取っている。その立場を自覚しているはずのクロロがそんな風になるのは想像できない。だからこそ恐ろしい。

「死ぬのは怖い?」
「死んだことがないからわからないわ」
「あぁ、確かにそうだね」
「でも死ぬなら恨みを残していく」
「恨み?」

 心からの関心をクロロが示したのは初めてだった。
 続きを語る気はなかったが、わくわくした表情のクロロに少々面食らう。そして一拍置いて重い口を開いた。

「……きちんと自分の葬式が行われた場合のことしか考えてないんだけどね。あ、土葬でも火葬でもどちらでもいいんだけど」

 はまた無意識のうちに両手を組んだりさすったりし始めた。
 一見癖のようであり大事な手を慰めているように見える。しかし横で黙ってそれを見ていたクロロには、が手にその恨みとやらを自らの手に込めているように見えた。

「墓に埋められても、手だけは夜になったら土から這い出てやるつもり」
「またピアノを弾くために?」
「それもいいけど、私の手を下劣な目で見ていた奴らを毎晩一人ずつ殺していく。金持ちもそうじゃない人も平等に……とかどう?」

 本気で心からそう思っている。どうせ笑われるだろうと思っていたからわざと重々しく言ったのだが、クロロは馬鹿にしなかった。
 笑顔ではあるが、嘲るような笑い方ではない。それどころか「いい考えだ」と納得したように感心した。

「ありがとう。と言っても私のオリジナルの考えじゃないんだけど」
「そうなの?」
「恩師がそういう考え方をする人だったのよ」
「君の先生か。聞いたことあるよ。確かオートゥイユだっけ」
「そう、オートゥイユ先生。予期しない死を迎えたら絶対恨みをこの世に残すって笑ってたわ」

 親子以上に歳の離れた師弟だった。数年前に彼が亡くなってからは独立したが、今でもたまに師匠と仰いだオートゥイユのことを思い出すことがある。

「先生も悪趣味だったわ」
「でも君の場合は手だけなんだろ?その手を引いて殺す相手のところに連れて行ってあげるのもいいね」
「そこは自分が代わりに殺してやるとは言わないのね」
「だって復讐ってそういうものだろ?自分でやらないと意味がない」

 それには同意する。だからこそ恨みを活力にして死んだ体を奮い立たせるのだ。
 だがクロロの提案は不思議だった。連れて行った後に彼自身はどうするのだろう。
 その場で復讐を見届けるのか、それとも連れて行くことが目的で、目的を果たしたらどこかへ消えるつもりなのか。
 少し調子が良くなってきたので聞いてみようと思った時だった。
 空気が唐突に変化したわけではないし、クロロの口調に変化があったわけでもない。唯一妙だと感じたのは、何か吹っ切れたような彼の微笑みだけだった。

「先に謝っておくけど、俺は君の手には興味がある。ごめんね」

 前後の文脈に繋がるようなそうではないような言葉だった。悪いことだと分かっていながら興味を持つことを完全な悪とは言えない。
 率直過ぎる言葉はどう返せばいいのかを悩ませた。まだ腹の内を探り合っていた方がマシだ。不意打ちすぎたので、やれやれとため息を吐き呆れて笑ってしまった。

「だったら最初からそう言って近づけばよかったのに」
「ごめんごめん。普通の人ならいけるかなと思ったけど、思ってたより簡単にはいかなさそうだし、何よりさっきの話が面白かったから充分かなって」
「何のこと?」
「今の手よりも、墓から這い出る恨みや憎しみに満ちた手の方が綺麗だと思うんだ」

 夜景を背にしたクロロは不気味なくらいに美しく見えた。ようやく彼を不気味と思えて、何故かほっとした。
 倒錯した人間を知る機会は今までにも沢山あった。彼もまたその内の一人なのだろう。そういうところに美を感じる人間がいてもおかしくはない。
 そしてそういう思考のクロロを一瞬でも美しいと思ったも結局は似たようなものだ。
 クラピカを見ていたからよく分かる。同じように憎しみを抱えているはずなのに、と彼とでは何かが違う。クラピカが何を考えているかは詳しく知らなくても、その在り方は美しいと思う。
 クロロとは同じ考えのようで違う。少なくともはそう思っている。だがほんの少しだけクロロに対して親近感が沸いた。

「その時は貴方のことも殺しに行くかもよ?死んだ後、私の手に自我があるかどうかなんて分からないし」
「うーん、その時はどうにか説得したいね」
「……一応聞くけど、どうして私の手にこだわるの?他の人達みたいに鑑賞用にしたいと思ってるの?」
「他の奴らがどう思ってるのかは知らないよ。俺はただ、君の手を握ってみたい。それこそ恋人のようにね」

 クロロの表情に照れた様子はない。下心がないから真摯な愛の言葉に聞こえる。
 とても歪んでいるが、実際に愛とはかけ離れている感情なのだからそこは仕方がない。現には全くときめかない。ときめくわけがなかった。

「君の中ではこれも下劣な考え方になる?」
「どうかしら……でもなかなか悪趣味だと思う。手を繋ぐのはいいとして、骨だけになってるかもしれないのに」
「あぁ、それもいいね。ミシミシと軋みそうだ」

 薄暗い何かが付き纏うくせに、何故こんな時に憧れを抱く青年らしい表情が覗くのか理解できない。全く照れた様子もなくクロロはさらりとのたまう。

「ずっとファンだっただけだよ」
「手の?」
「君の、だよ。さん。だから今日会えたのは幸運だった。君にとってはそうじゃないかもしれないけど」
「殺す気でいたくせに」
「気が変わったんだ。幸運に思……えるわけないか、ははは」

 嬉しそうな、全く嫌な感じのしない笑顔だった。
 命拾いをしたのだから確かに幸運だったかもしれない。でも絶対にこの男には言うまいと思った。
 何故か和んだこの場に小さく携帯電話の着信音が鳴った。ポケットから取り出して画面を確認したクロロは「もう行かないと」と名残惜しそうに言った。

「今夜はここを離れない方がいい。できることなら、そうだな……上階に部屋を取って休むといい」
「これで死んだら貴方を恨んで真っ先に殺しに行くわね」
「それは楽しみだ。その時は責任を持って弔おう。……それじゃあ、また会えるといいね」

 生きている内にまた会おう、死んだら会いに行くよ。どちらとも取れるような別れの言葉だった。
 クロロがいなくなって一人残された後、するりと手袋を外してみた。
 ネオンの予言に出た悪魔とはどう考えてもクロロのことだが、悪魔はを殺さなかった。
 念が解かれているのかどうかを確かめるため、このまま下の階に降りてみるべきか。それともクロロの言うことを聞き、部屋を取って大人しくしているべきか。
 己に選択を迫る時、ガラスに映る自分の姿をもう一度見つめた。


La danse macabre - C. Saint-Saens