下へ下へと降りていく。流石にこのビル全体を爆破するわけではないだろう。エレベーターがまだ使えるのがその証拠だ。
降りる判断を下した理由は、自身の念について詳しく知るためだ。実験と言ってもいい。
占いの通りにならなかったということは、どこかの週で歯車が狂った可能性がある。そうでなければ手の念によるものだ。前者はもう調べようがないが、後者は今からでも遅くない。
本来、手の念が解かれることはない。簡単にできることではないし、クロロがの手に投げた視線は“彼ら”に等しいものだった。それが何よりの証拠だ。
彼はきっと嘘はついていないと思う。だからと言って真実を全て教えたとは思えなかった。言わなくてもいい情報の中に、が知るべきことがあったかもしれない。
そしてずっとファンだったと言っていた。その真偽はどうでもいいが、今日の出会いが偶然とは思えなかった。
誰かに自分がここへ来ることを聞いたか、何らかの方法で知ったのか。誰が、どうして、どうやって……
エレベーターのドアが開いた途端、大きな爆発音が轟いてとっさに耳を塞いだ。
「鼓膜が、破ける……」
手の次に重要な商売道具とも言うべき耳がひりひりする。そのまま一歩踏み出すと、足元でパキッと音が鳴った。
ガラス窓がほぼ全て割れて辺りに欠片が散らばっていた。競売の会場に不釣り合いな硝煙の臭いが漂っている。大きなソファーに隠れて見えないが、その床の血だまりに人の腕が見えた。ぴくりとも動かない。
……これは戻った方がいいのかもしれない。
エレベーターの方に振り返ったが遅かった。上階の誰かが使用するつもりらしい。数字は5階、6階、と上がって行く。どうしたものかと悩んでいると焦燥のこもった大声が降ってきた。
「伏せろ!」
声の主を見つけるどころではなかった。後ろで大きな爆発音が聞こえてようやく状況を理解したが少し遅かった。
爆風で体が地面に投げ出され、咄嗟に両手を守った。爆風で窓枠に残っている大小のガラスがぱらぱらと振ってきた。破片が腕をかすめた時、舞台で着るような背中の空いた服を着ていなくて良かったと、場違いなことを思った。
「!」
誰かの手が肩に触れた。爆発のせいで反射的に目を閉じていたらしく、恐る恐る開いて自分が横たわっていることに気づいた。
いつもより気迫のこもった顔をしたクラピカがの具合を窺っている。
彼がここにいるということはネオンもここにいるということだ。まずいな。問い詰められて上手く逃れられる精神状態ではない。
横たわったままのを抱き起こしてくれたクラピカからは、相変わらず焦りの色が消えなかった。
「君は怪我をしないんじゃなかったのか?」
「怪我?……痛っ」
そのまま起き上がろうとすると、二の腕に刺さったガラスの破片が床に落ちていく。腕だけではなく、膝や脛、頭からも血が伝っていた。
血の気が引いて手袋を取って手を確認した。身を挺した甲斐もあり、相変わらずの手がそこにある。良かった、と息を吐くような声が漏れ、目に小さく涙が浮かんだ。
「立てるか?」
「大丈夫、ありがとう」
そう言ったのにクラピカは手と腰を取って立たせてくれた。そして無言でハンカチを取り出しての頭の傷を押さえた。どうやら一番ひどいのはそこらしい。
地に足をつけた時、自分の状態をようやく把握した。
本当は頭が真っ白になったりパニックに陥ったりしてもいいはずだ。絶対に怪我をしない、死なないと思っていた確信は今までの経験によるものだ。
だがこの有様はどうだろう。それどころか、よく今まで怪我一つしないでいたなと感心さえする。自分に拍手を送りたいくらいだ。
「これじゃ残りの仕事は全部キャンセルね……」
小さな独り言がため息と共にこぼれた。顔も腕も台無しだ。大怪我というほどではないがすぐには治りそうにない傷だ。まずいことに、いつも晒すような部分にできてしまった。
にとって仕事は生命線とでも言うべきことだろうに、クラピカの目には彼女がそこまで落胆しているようには見えなかった。だからこそ何を言えばいいのか迷った挙句、無言でいることしかできなかった。
「助けてくれてありがとう」
しかし顔を上げたは落胆とは遠い表情を浮かべている。目に薄っすら涙を浮かべてはいるがそれは恐怖によるものではない。浮かない顔、腑に落ちない顔、色々言い方はあるが、とにかく珍しく困っているように見えた。
自身は自分の念をよく分かっていない。それに気づいたクラピカは疑念を抱いた。
人に触れさせないため、奪われないためだけの念。今でも手袋の下にそれがあると感じ取れる。目を逸らしたくなるような不気味な念を本人は良く分かっていないどころか、もしかすると感じ取ってすらいないのかもしれない。
だが今訊ねてもきっとは答えることができない。そして何より今は時間がない。
「これからボスは救急車で病院へ向かう。それまで君は客室にいるんだ」
「やっぱりお嬢様も来てたのね。救急車って、怪我でもしたの?」
「外傷はない。念のため安静にという医者の判断だ」
何かあったのかと怪訝に思ったのは、クラピカの計らいについてだ。
ネオンの身に何かが起こった場合、同じ場所にがいるのは非常にまずい。救急車に同行しろと言わないのはきっと側に彼女の父親が寄り添っているからなのだろう。
ライト=ノストラードとの関係は決して悪いわけではないが、良いわけでもない。要はただの雇用主と被用者だ。
ただ、前リーダーがについての何かを吹き込んでいる恐れがある。表面上は良くしていても、裏ではを良く思っていないかもしれない。そうだとしたら疑われてしまうし、防犯カメラを調べられたら余計にまずい。
――防犯カメラ。
そこでようやくその危険性に気付いた。遅すぎるくらいだ。
客室のある上階はともかく、ロビーにはカメラが設置されているはずだ。このビルの防犯カメラは一体どうなっているのだろう。どうにかして調べられないものか……
「わかりました」
やるべきことを先にやらなければいけない。そして多くを語らず、けれども確かにを守るようにと考えてくれたクラピカの気遣いを無碍にはできない。
仮にその気遣いの裏に何かあったとしても、彼に対してなら恨みや憎しみの感情は沸かない気がした。多少は怒るかもしれないが。
「貴方も病院について行くの?」
「いや、私はまだここでやることがある」
つい最近も似たような会話をしたなと思ったのはだけではなかった。ダルツォルネが死んだ日の夜も、今と同じようにクラピカは目には闘志とは違う別の炎が映っていた。
深入りできる仲ではない。仮に今より仲良くなってもそこに入るべきではない。そう思わせる雰囲気を纏っている。それが念というものなのかもしれない。
「死なないように気を付けて」
「ああ、心がけよう。君もな」
確実にが上階へ行くと思っているのか、走り去ったクラピカは一度も振り返らなかった。
嫌いな商売相手と対面する時は饒舌なのに、クラピカのような相手だと気の利いた言葉が見つからない。それどころか、上手く話そうと思えば思うほどに口が重く閉ざしてしまうのが不思議でたまらなかった。
さてと。
深呼吸して心を落ち着かせる。やるべきことは怪我の応急手当と防犯カメラの確認の二つだ。
このビルに残っていて、かつの要求に従順に応えてくれて、それでいて無害な人物は今のところ一人しか思いつかなかった。
Una furtiva lagrima - G. Donizetti