なつかしい風景






「私にも貴方のような力があれば良かったのに」

 隣を歩いているの小さな声はしっかりとセンリツの耳に届いた。サングラスをかけているの表情は読み取りづらい。果たして今のは独り言だったのだろうか。
 バショウが運転する車を降りたとセンリツは、雑多な街の中の人混みを縫って進んでいく。
 歩けば歩くほどスラムに近い雰囲気へと変わっていくこの場所へ誘ったのはセンリツだが、意外なことには臆することなく歩いていた。
 いつもと違うの格好は恐らく変装のつもりなのだろう。凝ったものではないがまるでお忍びのようだと思える。つい先日のクラピカの変装を彷彿とさせたのは、彼女のサングラスのせいだ。

「自分のために使うことは間違ってないと思うわ。特に貴方のような職業の人だとね」
「そういうことじゃないの……っと」

 すれ違う人を避けるのが遅れて肩がぶつかった。普段から車で移動することが多いので、こういった人混みを歩くのは久しぶりだ。
 2日前、ネオンのために病院へ見舞いに行ったはいつも通りに振る舞った。その場に契約主であるライト=ノストラードがいたこともあり、ネオンとのくだらない喧嘩(と言っても一方的なものだったが)は一応丸く収まった。
 この場で契約解除してもらおうかと、いつもの笑顔の裏でそんなことを考え、今までよりは本気だったが少し迷ってやはり止めた。
 帰ろうとした時、センリツに声をかけられた。曰く「疲れているみたいだから」とのことで、彼女の能力を知ったのはそのすぐ後だった。

「みんな貴方が奏でる音に惹きつけられるのよ。私の場合は頭のおかしい人間が手に注目してるだけだもの」
「あたしはむしろプロが念に頼っては駄目だと思うわ」

 優しくも厳しい言葉だ。言われてみれば……ぐうの音も出なかった。
 念で儲けたいとは思わない。使うならばもっと上手く使う。そしてそれは本業と関係のないところで誰にも悟られないようにやる。
 センリツと決定的に違うのは、には人のために能力を振るいたいと思わないところだ。その必要がない、不可能であると言い換えてもいい。ピアノであれば話は別なのだが、それでさえも良くないものを引き寄せてしまう。
 とあるビルの前でセンリツが足を止めたのでもそれに倣った。錆びついた階段を昇り始めたセンリツに後ろから問いかける。

「貴方は私が念を使って人を惹きつけていると思う?」

 そうすることで何かを得る能力だとしたら、彼女のボスは既に罠にはまっていると言わざるを得ない。きっとクラピカも一度は同じことを考えたはずだ。
 すぐ外に聞こえる人の賑わいはビルが立ち並ぶ都心部と変わらないはずなのに、軋む階段の音と錆びた鉄の匂いが妙に庶民的な気がして、こちらの方が何故か心が落ち着いた。
 恐らくそのおかげで、踊り場に出て更に階段を上がる時、はっきりとしたセンリツの声をすんなり受け入れることができた。

「あたしにはむしろ、周りと自分を巻き込む呪いに見える」


 似たような光景を思い出した。
 髪の色も目の色も違う。そもそも年齢も異なるのに、目の前で眠っているクラピカが過去に重なった。
 あれは数年前の春のことだ。
 この部屋に似た雰囲気の隙間風が漏れる古い家。本と紙とインクの匂いが混じって、恐らくピアノの匂いもあったのだと思う。
 リビングにはダイニングテーブルと椅子、ピアノがあった。寝室は二部屋あったが、家を離れる直前はずっと片方の寝室で過ごしていた。
 壊れた弦楽器のように軋んだ音を出すベッドは、その持ち主がそこに寝たままほとんど動けなくなってからは聞く機会を失った。ベッドに横たわるその人はもう何か月もピアノに触れていなかった。
 またあの時のように、病床に伏せる人の手を握りしめたらいいのだろうか。
 私がいるから大丈夫と、明確な根拠もないのに軽率な言葉をかけたらいいのだろうか。
 洗面器に溜めた水に布を浸して絞ると、冷たい水が素手に染み込んでいった。
 簡単な動作なのにこんなに力が要るなんて思わなかった。いや、そうだと知っていたのに忘れていただけだ。前は大変だなんて思わなかった。
 苦労一つしていない箱入り娘になった気分だ。再び目いっぱい絞ってみたが、力が弱いせいで雫がぽたぽたと洗面器の中で小さく音を立てた。
 すると視界の端で寝ていたはずのクラピカがもぞもぞと動いた。不器用なやり方による音のせいで目が覚めてしまったようだ。

「おはよう」

 それどころではないというようなぞんざいな挨拶になった。寝ている間にタオルを変えてあげようと思っていたのに、無駄になってしまった気がする。
 言葉を失っているのだろうか。あからさまな驚きはクラピカの顔に出ていないのだが、どういう気持ちの表れで彼は真顔になっているのだろう。よってが辿り着く予想は一つだった。

「声も出ないほど疲れているのね」
「……何と言おうか迷っていただけだ」

 何故ここにいるのか、と聞くべきか迷っていたのではないだろうか。そんな野暮な質問は流石に憚られたようだが、聞かれたとしても当然だ。
 センリツから声をかけられなかったらきっと自分から行動は起こさなかった。と言うか、クラピカがこんな状態になっているとは思いもしなかった。
 セメタリービルで会ったあの後、あの目を見た限りでは、確実に何かあったのだろうということだけは分かる。
 無理矢理起き上がろうとしたクラピカを静止した。熱に浮かされていると聞いていたが、顔色は良くなったように見える。

「目、元に戻ったみたいね」
「ああ」
「良かった」
「良かった?」
「あの色は綺麗だったけど、私はいつもの方が好きよ」

 心からそう思った。面と向かって言うのは少々恥ずかしかったので少し視線をずらした。
 舞台に立つ時に着る赤いドレスは好きだが、似たような赤のはずなのにあれには恐怖を覚えた。美しいが、負の象徴だ。
 数日前に読んだカタログの情報は落札者向けの情報でしかない。元の所有者達、と言っていいのかは分からないが、彼らにとっては不幸なことだった。

「仕事はね、しばらく休むことにした」
「そうか」
「お嬢様の方には顔を出すつもりだけど、傷のせいで表舞台には立てないから」


 クラピカが聞きそうなことをとりあえず話してみようと試みてすぐのことだった。無理矢理話題を探しているのがばれたのだろうか。

「その手は、いつ誰に念をかけられた?」

 以前対面した時のような問い詰め方でないのは体調のせいだけではないのだろう。
 もしその時のような聞き方であっても、今のはきっと正直に答えた。その仮定よりもずっと答えやすくなっただけのことだ。

「先生を看取った時かしら、多分」

 振り返ることはあっても思い出に浸るようなことは今までしなかった。
 感傷的になることはない。良くも悪くもという人間を作り上げてきた過去なのだ。
 今までよりも深いところへ浸ることができそうなのは、かつて住んでいた家に似ているこの部屋のおかげかもしれない。
 つい先ほどセンリツに指摘された時に湧き上がった感情に似ている。隠し続けたことが暴かれてしまったというのに、錆びた重い枷が取れたような気分だ。


Freundliche Landschaft - R. A. Schumann