ピアノの師であるオートゥイユは数年前に病死した。葬儀が行われた後、棺桶は墓地へ向かったが、棺桶の中の遺体には手首がなかった。
切り離された手首は液体漬けにされ、オークション会場へ向かった。死後、皺だらけの手を手放すというオートゥイユの意思に従ってのことだ。
立ち入る資格も金もない少女だったには止めることはできなかった。止めようともしなかった。それが沢山ある師の遺言のうちの一つだったからだ。
遺されたことやするべき事は山ほどあった。家と遺産、楽器や楽譜、音楽家仲間や友人への対応。早々に死期を悟ったオートゥイユは自らの手で全て書面に遺した。
唯一言葉で遺したのは死の間際のこと。
死んでも私が守ってあげる――もう動かすのも辛いはずなのに、彼は両手での手をしっかりと握ってそう言った。
彼の死後、が以前とは何か違う自分の手に気が付いたのは、それから少し後のことだ。
気が付いたきっかけは、幼い頃に経験した事件が殆ど同じ形で再び起こったからだ。
まだが年端もいかない少女だった頃、オートゥイユと共に知人のコンサートへ行った時のことだ。
ほんの少しの間、師から離れた瞬間を狙われた。誰かに後ろから口を手で塞がれ、わけもわからないうちに抱えられていた。攫われると理解し、声も出せず弱い力でもがくことしかできなかった。
どんなに抵抗しても子どもの力ではどうにもならない。びくともしない大人の手は怪物のようで、恐ろしくて涙が出た。
だが幸いなことに車に押し込められる前に警備員が銃で犯人を撃ち、は救助された。
その時は知る由もなかったし、オートゥイユも教えてはくれなかったが、彼の死後に調べてようやく分かった。を誘拐しようとした犯人は、まだ幼い少女の手を欲しがっていたのだ。
オートゥイユの死後、今度は別の人物に襲われた。
今度の犯人は誘拐ではなく、その場で殺して手だけを持ち去ることが目的のようだった。
やけに饒舌な男だった、ということが今でも印象に残っている。
偶然観に行ったコンサートで運命的な出会いをしたんだ。一目見た時から忘れられない。夢に見るくらいに恋しく思う。誰かのものになる前に自分のものにしたい――
まるで口説くかのような情熱的な告白だが、その対象はではなく彼女の手だ。の顔なんて恐らく男の目に映ってもいないだろう。
男は解体するための刃物のほか、すぐ殺せるように銃を用意していた。楽に死ねるようにという気遣いからではなく、抵抗されて手が傷つくのを恐れたためだ。
銃口を向けられ、もう駄目だと思ったは目を閉じた。こんな人気のない場所には誰も来ない。誰かが駆けつける時にはきっと、自分は手首を失くした状態で血の海に沈んでいるに違いない――
銃声と共に短い悲鳴が上がった。痛みは一向に訪れない。
恐る恐る目を開くと、男が地面に蹲っていた。硝煙の匂いと、恐らくは血肉の匂いが辺りに立ち込めていた。
何度も似たような事件に巻き込まれていくうちに、流石に自分を疑い始めた。
あと少しで殺されそうになった場面がいくつもあった。選択肢を間違えなかったから助かった、という話では済まされないことばかりだ。
銃で撃たれそうになった時も、背後から刺されそうになった時も、絶対に怪我をすることがなかった。かすり傷一つつかない。どんな時でもに向けられた刃は彼女ではなく、犯人の体へ届くのだ。
どういう原理でそうなるのか知りたかった。本当に偶然なのか、それとも他の何かが原因なのか。
殺されそうになる恐怖は昔も今も変わらない。ただ、少しだけ感覚が麻痺してしまった。
いくつかの修羅場のおかげで「自分は絶対に死ぬことはない」という確信はあったが、それでも「いつか誰かに殺されるのだろう」という諦念が事件の度に強くなった。
意を決しては実験を試みた。
コンサートの来場客リストを見て常連客をそれぞれ調べてみると、純粋の音楽を楽しみにしている者とそうではない者の違いが明確になった。
念入りに調べ、その中でも悪質そうな者を数人選び、わざと気があるように振る舞った。あっさり引っかかった者達は、それぞれ違う手段での手を手に入れようとして、案の定、誰も彼もが失敗して命を落とした。
最早定番とも言える、刃物で切断する方法は実験として一番分かりやすい結果を生んだ。
斬ろうとすると、まるでそこに壁でもあるかのように刃がの手首に届かない。おかしいと思って刃を引っ込めようとすると、手元が狂ったかのように凶器が犯人の体へのめり込んだ。
確かに子どもの頃から変質者に狙われたことはあったが、ここまで多くはなかったし、狙ってくる者もこんなに狂気的ではなかった。
ふと初めて襲われた時のことを思い出した。
あの事件の後、オートゥイユはより一層をそばに置くようになり、外へ出る時には必ず手袋をしろと言った。
不思議なことに、あの手袋をしている時は嫌らしい目を向けられることはなかったのだ。そしてオートゥイユの体調が悪くなってからはも外へ出ることは殆どなくなった。
役目を失った子ども用の手袋は、今ではもう大きさが合わない。手の違和感に気が付いた後に久しぶりに引っ張り出してみると、昔は感じなかった何かがそれにはあった。
オートゥイユ関係の連絡先から服飾関係の知人を調べたは、ある店に辿り着いた。
一流の洋裁師であるその人物の店へ、オートゥイユは過去に何度か訪れている。
服だけに留まらず、帽子や靴までオーダーメイドのみを取り扱う店だ。服に興味のないオートゥイユが訪れる理由も、彼が何を依頼したのかも、にはもう分かっていた。
これほどまでに重いドアがあるのだろうかと思うほど、店内に一歩踏み出す力がなかった。
だが、ここへ来ればきっと分からないことが明らかになる、良い方向に向かうはずだ、などという希望は一切抱くことはできなかった。
Last spring - E. H. Grieg