水に濡れた手を拭いて手袋を付け直した。まるで今話したことを再確認しているかのようなクラピカの視線を感じる。
視線を感じるということは意識の問題なのだろうかといつも不思議に思う。散々味わってきたねっとりとした嫌な視線も、気にしすぎているせいではないかと何度も考えた。
しかし仮に気にしすぎているとして、その過敏さがなければ今こんな心地にはなっていなかった。少し前までやたら懐疑的だったクラピカの茶色い瞳が、今になって違う色を帯びて自分を見てくるのはどうにも落ち着かない。
「依頼者が望む効果を反映させる衣類か」
「上手い商売よね」
「それには同意するが、随分と雑な店じゃないか?何度か君の手袋を見ているし今も見ているが、隠しきれていない」
「あぁ、それは効果が切れかけているから」
念能力者ではないには見えないし分からない。出会ってから間もないクラピカがそう感じるのなら、疾うに買い替え時期は過ぎていたのだろう。
成長を見越して少し大きめに作ってもらった手袋は、この歳になってやっとぴったり合うようになった。
「この手袋の効果は長くても5年と言われたわ。子ども用の手袋は7年くらいだったはず」
職人曰く、布の厚さや面積はもちろん、隠す場所の症状によって効力は変わってくる。治らない怪我や病気が原因である場合と、のように他人の念が影響している場合とで施術は異なるらしい。
人気店というだけあって、購入時の契約や条件も厳しい。
まず店が非常に見つけにくい。の師が手掛かりになるメモを残していなければ、多分一生見つけられなかった。
そして注文する時は直接店を訪ねることが必須。
店の詳しい場所を口外しないこと。これに関しては直接聞いたわけではないし、師も故人ということで店主は渋々納得してくれた。
「……など、色々」
「購入した商品によって身体に問題が生じても店側は一切責任を負わない、という条件もありそうな店だな」
「よく分かったわね。あくまでも隠して抑えることが彼らの仕事だから」
「私に話して大丈夫なのか?」
「具体的なことは何も言ってないから大丈夫……よね?」
子ども相手にも一切の妥協を許さない店だからこそ信頼できたのかもしれない。契約書の長さが通常の3倍あったのはどうかと思うが。
万年繁忙期と言っても過言ではない人気店でオーダーするとなると、完成までにかなり時間がかかる。身の安全と仕事を天秤にかけて、危険を承知で仕事を優先してしまった。ヨークシン行きを決めた時点でどちらにしろ手遅れだったのだ。
大きな仕事はしばらく休むしかない。ヨークシンに来る前はできなかったことだが、今ならそれができる。
「実際のところ念能力を使える人にはこの手や手袋はどう見えてるの?透けている感じ?」
「どちらかと言えば、漏れているような感じだな」
「オーラとかいうもの?」
「ああ」
ドライアイスみたいなものかしら。手を仰ぎ見てもには何も見えない。
漏れているそれが一体どんな色をしているのか想像してみる。きっとこの手袋と同じような黒いものであるに違いない。
「先生があの店に行ったのは……」
途中で言うのを止めて次の言葉を探した。それが見つからないことがある事実を証明しているかのようだった。二人同時にそれを悟ったが、苦い表情では首を横に振った。
「先生にお嬢様のような趣味はなかった。死んだ後調べたけど片鱗すらなかったのよ」
「結果は置いておくとして、彼は君を守るために念を込めたのだろう?死の間際であれば焦りもあったはずだ。思惑通りに作用しない可能性もある」
「うーん、正直なところ自信を持ってそうだとは言えない」
自分もクラピカも考えていることはきっと同じだ。だが、言葉にしてしまえば何かが壊れてしまいそうで、はっきりと言うことは憚られた。
世にも珍しい宝はある種の魔力にも似たものを帯びている。それと共に長い時間を過ごした者はどうなってしまうのか。
守りたいと思ったからなのか、誰かに奪われるのは耐えられないと思ったからなのか、もう知る術はない。
「そういえば、よくこれが私の念じゃないと分かったわね」
「自分の能力について一番知っているのは自分自身だ。精度を上げるために条件をつけるのは必須だが、君にそういうものはないように見えた」
「と言うと?」
「念の威力を上げるためにつけられた条件を一部しか知らない。つまりそれは君の能力ではない可能性が高くなる。条件がランダムに起こることを前提にしているなら話は別だが、君の話や実際に目で見てそういう制約は当てはまらないと感じた」
黙ってクラピカの言葉に耳を傾けた。制約とやらが何を意味しているのかは気になったが、先を聞きたいので静かに頷いた。
「予想でしかないが、悪意を持って君を傷つけようとした場合のみオートゥイユ氏の念が発動するのだと思う。この場合の悪意とは、さっき君が言ったように手を奪おうとすることだろうな。不慮の事故に巻き込まれた場合ならきっと念は発動しない。先日、身を以て経験しただろう?」
「なるほど……」
なんてつまらない理由で怪我をしてしまったのだろう。爆発なんて避けようがなかったが、今の話を聞くと恥でしかない。あの時の自分は意地になっていたようだ。
ふう、と吐いたため息と共にここ数日間の感想が漏れる。
「念ってなかなかに厄介なのね」
色々な意味を含めての言葉だったが、一言で片づけたせいかクラピカは苦笑した。
今更ながら話して良かったのかぼんやりと思う。
自分の深いところに関わることを念能力者に話す――いずれ目的を果たすためにはやらなくてはいけないとわかっていたつもりだ。だが自分にその勇気と心眼がないことは、自分が一番知っている。
なんとなく指先を弄んでいると視線を感じた。レストランでもこんなことがあった気がする。既視感、と思ったがあの時はこんなに穏やかな空気は流れていなかった。
「君の手は、オートゥイユ氏が存命だった頃でも狙われていたのか?」
「そうだけど、あの時の一度だけよ。それに犯人は死体収集家じゃなくて少女の身体が好きな変態だった」
「……なるほど」
「だけど不思議なことに、逮捕された後は私の手に執着していたらしいから、やっぱりこれは先天性のものなのかしらね」
「その犯人は今どうしている?」
「獄中死したわ」
そうか、と言ってクラピカは目を閉じた。
目線が離れてから両手を重ねて膝の上に置いた。人に注目されて手を弄ぶの癖が治らないのが厄介だ。
「才能のある演奏家の手は高く売れるのよ。楽器の腕前はもちろん、見た目が美しいというだけでも高値がつく」
「どの業界であっても人体収集家が考えることは同じだな」
「そうね。でも結局は音楽がわからない者が下した無意味な価値だもの」
思えば師がに手袋を与えたのはあの事件の直後だった気がする。弟子の音楽の才能を守るために手袋を買い与えてくれたのだと思っていた。だが、あの時自分の恩師に一体どんな感情が芽生えたのだろう。
「先生は演奏家の手や楽器が競売に出されることに嫌悪していたのに、何を思ったのか死後自分の手を競売にかけると言った。そしてその手で落札者を呪ってやるとも言っていたのよ」
「君にも作用しているようだな」
「結果としてだけならね」
自分の恩師はどれだけ執念深いのか、一人残されてから苦笑いした。きっとその執念深さは自分の奥深いところにも存在しているのだ。
上手く隠せているといいな。できることなら人前では出てこないでほしい。クラピカのような人の前では特に――
自分が醜いものを抱えていることは否定しないが、それが彼の目に触れるとなると話は別だ。
「死んで呪いをかけるって、いい考えよね。……ん?これ最近誰かに言ったような」
「まさかと思うが、君も死後は同じように競売にかけるつもりか?」
「いつか心変わりするかもしれないけど、今はそのつもりはないわ」
オートゥイユとは違い、守るべき大切な人なんていない。死んだらそれまでで、誰かに見送られることもない。事務的に処理してもらうだけだ。
もしそんな人がいたらオートゥイユと同じことをするかもしれない。何しろの生き方を導いてくれたし、一度の人生だけでは使いきれないほどの財産を残してくれた。
でもできればそんな存在は現れないで欲しい。障害でしかない。
「貴方の目も大変よね。緋の目、だったかしら」
「知っていたのか」
「悪趣味な人達の相手をしていたからね」
目を見開き何かを喋ろうとしたクラピカを止めた。
これはただの予想だ。が何かを探しているということは、きっとクラピカもそうなのだろうと勝手に想像しただけだ。
ノストラードファミリーで仕事をしている理由も、目を赤くしていた理由もなんとなく分かる。
同じネオン達に関わっている同士だとしても、同じ仕事をしているわけではない。どこまで話していいのか、何を話してはいけないのか、お互いに共通しているノストラードという存在がそれを妨げる。
こちらが話した分の同じだけの秘密を強要するつもりはない。ただでさえ長く話して疲れているはずだ。
「私も先生の手を探してるの。買い戻そうと思ってね」
奪い返すという考えはない。元々オートゥイユ自身が売ったものだ。それなら同じように金で解決すればいい。
当時はオークションで落札するための手段がなかった。競り落とされた後に手元に何割か入って来たが、まるで意味がなかった。
落札者が簡単に手放すはずもないし、交渉するための手段を幼い少女一人だけで用意することはできなかった。運が悪ければ返り討ちにされていたはずだ。
数年かけてそのために準備をしていたのに、今度は別の問題が発生した。
「今は誰が持っているのかわからない。落札者が死んだ後は身内が手放してしまったし、噂では右手と左手はそれぞれ別の場所にあるらしいし……」
「買い戻してどうするつもりなのか、聞いてもいいだろうか」
いつも単刀直入な質問ばかり投げかけてきたクラピカが珍しく低姿勢な窺い方をした。でもきっと自分の答えは参考にはならない。
「誰の手にも渡らないようにするわ。普通に燃えてくれたらいいんだけど」
「そうか……てっきり君の手の念を除くためだと思っていたよ」
「多分できないと思う。先生、執念深いから」
念の何たるかを知らないにも分かる。死んだ後に残るものは強い情念がなければ残るに値しない。
オートゥイユは演奏家や芸術家の死後に、遺体やその一部を手に入れたがる好事家を心底嫌っていた。彼の友人や恩人の悉くがそういう目に遭ったからだ。
だから自分は絶対に許さないと言ったあの憎しみは、死んでもなお生きている。弟子であるのために。
「疲れたでしょう。もう少し眠った方がいいわ」
撫でるようにクラピカの額から瞼へ手を滑らせた。僅かな抵抗を感じ取ったが、すぐにそれもなくなった。やはり疲労はそう簡単には取れていないようで、しばらく続けていると静かな寝息が聞こえてきた。
手袋越しの感触しかないが、その向こうに体温を感じる。熱い、生きている。
昔握った冷たい肌の感触とは違う。死んだ後に残る暗くどろどろした憎悪とは違う、今も生きている人の温もりだ。
だからこそ心の中で引っかかる。この手は悪いものを追い払ってはくれるが、もしかすると良いものも退けてしまうのかもしれない。それだけならまだいいが、苦しませるかもしれない。だからきっと、生身の手で触れてはいけないものがこの世にはある。
Der Dichter spricht - R. A. Schumann