波濤を越えて






 数日前、ネオンが運ばれた病院へ足を運んだ時、何を勘違いしたのか、ライト=ノストラードは喜んで迎えてくれた。
 娘の数少ない話し相手のために気を遣ったのか、彼が退室してくれたのはチャンスだった。わざわざ訪れたのはもう一度ネオンに確認するためだからだ。

「大変な失礼を働いてしまったので、契約解除をするのでしたらそれに従います」

 むしろそうなることを望んでいたのではないかと、その時になって思い知った。期待を込めていたのではないか。
 自分の手の秘密を知っているのはこの世に1人だけ。だが口外するなとは一言も言わなかった。
 もし彼がネオン達にそれを教えていたら、がこの場に辿り着く前に事故に見せかけて殺していたかもしれない。それを確かめるためにもこの場に来る必要があった。
 結果、無事にノストラード親子と対面を果たすことができた。クラピカは秘密を守ってくれたのだ。

 そこまでは良かったのだが、ネオンは首を縦に振らなかった。それどころか謝罪までしてきたものだから、契約更新せざるを得ない状況になってしまった。
 事前にセンリツから事情は聞いていたので、ネオンが憔悴していたことには驚きはしなかった。失礼な話だが、むしろ他者に対するそんな感情を持ち合わせていたことに感心したものだ。
 信頼している側仕えが取り乱し、それに引きずられて不安な気持ちになっていたのだろう。その気持ちは理解できる。
 ネオンはやけに落ち着かない様子でに絡んできた。何を言ったかほとんど覚えていないが、弱ったネオンの耳に心地よく聞こえる言葉を与えたはずだ。
 可哀想な子。隣にいたセンリツはその時のの心音をどう思ったのだろう。





「何が可哀想よ。偉そうに」

 手に持っていたカーディガンを乱暴にスーツケースの中に叩きつけた。
 思い出せば出すほど腹が立つ。自分にも、ネオンにも。
 先に失礼を働いたのはお前の方だ。人の仕事を軽じたくせに、こっちがどんな思いでこの仕事をしてきたと思っているのか。自分の気持ちが沈んでいるから側にいて?本当にふざけている。相応の詫びするなら契約解除くらい受け入れろ。お前にできることはそれだけだ――

 まだ日も昇らない時間帯に、一人ホテルの部屋で苛々しながら帰り支度に追われていたのが数時間前。
 早めにチェックアウトしてタクシーに乗り込むと、一気に眠気が押し寄せてきた。数時間しか寝ていないのだから当然だろう。
 朝一番の便でヨークシンを発つ。ここ数日はあっという間に時間が過ぎたと思う。
 ゆらゆら揺られて運ばれる時間はあっという間で、空港までそれなりの距離があったはずなのにすぐに到着してしまった。ずっと眠っていたかった。

 のろのろとスーツケースを引きずりチェックインカウンターまで向かう。
 ヨークシンはしばらく大変だろうな、と数日過ごした街に同情してしまう。あの騒動があった後、行政はどう対応するのだろう。市長は辞任してもおかしくない――ああ、疲れることを考えるのはやめよう。
 そう思っていたのに、正面にいる人物を見て自分の頭が覚醒してしまった。
 何故クラピカがここにいるのか。センリツから今後については伝え聞いているはずだ。何より遠くからでも顔色の悪さが見える。
 呆れや怒りに似た何か――を全てまとめて、かける言葉は最低限になってしまった。

「何をしてるの」
「今日君が発つと聞いたから間に合わせたのだが、何故怒っているんだ」
「その体調で来るとか正気?」

 余程機嫌が悪く見えたのか、一瞬クラピカはたじろいだ。こんなの誰でも怒るに決まっている。

「君が何を言いたいかはわかる。私の体のことは私が一番理解しているよ。この前よりはずっと良くなった」

 この人はこの顔色が人間としての標準だと思っているのだろうか。見舞いに行った時との違いと言えば、二本の足で立てるようになったことくらいだ。
 思わず周囲をきょろきょろと見渡した。だが護衛の仲間らしき人物は全く見当たらなかった。
 本当に一人で来たらしい。センリツが止めそうなものだが、押し切られたか彼女に黙って出てきたかどちらかだろう。
 努めて冷静に、言葉を慎重に選んだ。

「見送りはありがたいけど、もう戻った方がいいわ」
「君を見送るまでは私の休憩時間だ。そしたらすぐ戻る」
「随分長い休憩時間だこと。一体いつからここで待っていたのかしら」

 誤魔化すように微笑んだクラピカは何も答えなかった。顔色のせいで痛々しく見える。
 早朝ではあるが空港は人で行き交っていて、誰も周りを気にしていない。その雑多さが今はありがたかった。
 コーヒーを買って早々にベンチに座らせた。もしものことを考えて救護室の場所を探そうとしていると、クラピカが荷物を見ていることに気が付いた。

「随分身軽なんだな」
「ほとんど宅配で送ったの。要らない物は事務所がどうにか処分してくれるはず」
「どうりで眠そうに見えたわけだ」
「一晩あれば充分かと思ったんだけどね」

 一人で何箱も梱包するのは流石に骨が折れた。ネオンの見舞いに仕事の後始末が続き、おかげで睡眠時間は短くなり、予想外の再会で眠気は吹っ飛んだ。
 あと一、二か月は家に帰らないで療養としての休みをとるつもりだ。ネオン達と会うのは何か月先になるだろうか――

「そうだ。貴方にお礼を言わなければと思ってたの」
「お礼?」
「お嬢様に私のことを黙っていたでしょう。ありがとう」

 あの時はやけくそ気味だったが冷静になってみるとやはり命拾いしたのだ。短気を起こしかけた、というか起こしていた。
 何の話かと思っていたクラピカだったが、何を言われているのか即座に理解した。

「礼には及ばない。君だって私のことをボスに黙っていただろう」
「それ、私の予想は的中してたって判断していいの?」
「ああ」
「そんなあっさりばらすものじゃないと思うけど……」

 まさかクラピカも数日前の自分のようにやけくそ気味になっているのではないか。熱に浮かされてここに来てしまったくらいだから、そうであったとしても不思議ではない。

「貴方本当に熱下がったの?」
「君、何か失礼なことを考えていただろう」

 じとっとした目つきで鋭く突きつけられた。少し怯んだが、どうやら熱のせいではないようなのでそれはそれで良かった。

「私は貴方みたいに自発的に身を守れる力なんてないから、拷問や尋問をされたらあっさり吐くわよ」
「ばれないように振る舞うのを頑張ってくれ、としか言えないが、その時はその時だ」

 こちらの戸惑いに気づいているのかいないのか、クラピカはやけに落ち着いている。熱のせいではないのなら、彼は最初から何か目的があってここで待っていたのではないだろうか。

「君は結構苛烈な部分もあるようだし、手のことは知られない方がいい」
「苛烈って……今もそう見えるのかしら」
「化けの皮が剥がれたような感じに見える」
「ひどいわね」

 あまりにも直球な感想に笑ってしまった。こういう風にいつも笑えたら楽しいのに、と思う。
 元々の顔立ちがそうさせるのか、自分の顔は真顔でいると周囲に怖い印象を与えるようだった。だからこそ化けの皮を纏っていたのだが。
 くるくると表情が変わるネオンを完全に嫌いになれなかったのは、そういう面が自分にはなく、ある意味羨ましかったからかもしれない。
 それにしてもこの人は全然笑わないよな、と隣を見た。まぁ今の体調で笑顔になられても困る……と考えていると目が合った。

「貴方はもうちょっと笑った方がいいと思うけどね」
「余計なお世話だ」
「まぁ貴方は私と違って自分を守る術があるから、別に必要ないか」

 何か悟ったようなクラピカの顔がそこにあった。余計なことを言ったな、と心の中で舌打ちをした。眠くて頭が回らないんだから仕方ないじゃない、と言い訳した自分に苛立った。
 愛想よくしていた方が敵は作りにくい。特に自分のような弱い存在は。仕方がないのだと、自分に2回目の言い訳をした。
 沈黙が続く。そんなに反応しづらいことを言っただろうか。無意識のうちに、手元の空になった紙コップををいじって潰してしまっていた。
 結局彼は何をしに来たのだろう。手のことを内緒にしておけとの忠告は、電話でもできることだ。

「忠告ありがとう。そろそろ行くわ。ここで大丈夫だから」

 沈黙が続くと言うことは話すことがなくなったからだろう。ちょうどいい頃合いだ。
 立ち上がりながら、早く帰りなさいよと言おうとすると、いつの間にか立ち上がっていたクラピカが、手を差し出した。

「別れの挨拶くらいはしてもいいだろう?」

 それが何の意味かは知っている。万国共通の挨拶であり、コミュニケーションでもある。
 手袋をしているとは言え、人と触れ合うのはどうしても気後れしてしまう。
 何か起こるかもしれないし、何も起きないかもしれない。確率が同じだからこそ行動できなくなる。
 振り払うのは失礼だ。ぎりぎりのところで触れずにエア握手でもしてみようか?馬鹿馬鹿しい。
 ほんの数秒のうちにそういったことが頭の中を駆け巡った。
 その数秒の間、クラピカが何を考えていたのかは分からない。ぐいとの手を取り、引き寄せて握手をした。無理矢理だが、力づくではなかった。
 呆気に取られ、きゅっと手を握られて初めてクラピカの手に鎖がないことに気がついた。

「鎖はどうしたの?」
「握手するには邪魔だからな」
「念って便利ね」
「この前は厄介だと言っていたのに?」
「柔軟な考えだと褒めて欲しいわね」

 つい握り返してしまった。本当に、何も起こらなくて本当に良かった。
 力なく握っていると、よくわからない羞恥のようなものが芽生えてきた。どちらも手を離そうとしないから、ふつふつと気分が茹ってくる。
 そうしているうちに、一つひらめいた。握手を求められたからから、というよりクラピカが先に行動を起こしてくれたからだ。
 それまで戸惑ってばかりだったが急ににやりと笑った。それを不思議そうに見つめていたクラピカは、急に手を引かれて体勢を崩した。

「ちょっと失礼」

 前方によろめいたクラピカをそのまま受け止め、首に腕を回した。
 そこまで身長差がなくて良かった、とは流石に言わない。言ったところでヒールを履いているから当然だろうと正論を言われそうな気がする。
 拒絶されたらどうしようと直前まで悩んでいたが、決心した。というか、そう決意させたのはクラピカだ。
 呆気に取られているのかもしれないし、思考が停止しているだけかもしれない。全く反応を見せなかったので、これ幸いとクラピカの耳元に口を寄せた。
 別れを惜しむ男女に見えているならそれで良い。ぼそぼそと伝えた内容には全くそんな営みを感じさせないのだが、どちらにせよ他人に聞かせるような内容ではないのだ。
 ゆっくり離れると、クラピカは色々な感情が混ざったような面白い顔をしていた。

「誰も聞き耳なんて立ててないだろうけど、一応ね」
「……流石に驚いた。君の国ではこういう挨拶なのかと思ったよ」

 驚いたってそっちのこと?というのは呑み込んだ。
 本当は頬にキスをするとか、そういう挨拶もあるのだが黙っておいた。いつも澄ましているクラピカの驚いた顔を見られただけで満足だ。
 耳元で囁いたのは別れの寂しさや相手を思う愛情を込めた言葉ではない。
 とある人物のと、場所と、その理由。

「貴方の仕事の役には立てないけど、貴方の目的のためなら少しは役に立つと思う」

 あんまり期待しないで欲しいけど、と付け足す。役に立つかどうかを判断するのは自分ではない。
 戸惑うようにクラピカの瞳が揺れる。あの夜の煮えたぎるような赤とは違う茶色の瞳だ。
 これでやっと安心してヨークシンを離れられる。具体的に何が気がかりだったのかは今でもわからないが、少なくとも晴れやかな気持ちで旅立てるのは間違いなかった。


Sobre las Olas - J. Rosas