ホテルを転々とする生活を続けている休暇中でも、色々な人物から電話がかかってくる。
電話の相手と予定を先の確認する。早く会いたくて仕方がない――そんな様子が電話越しに窺えるが、愛想よく適当に相槌を打つ。相手の話が長くなりそうだったので忙しそうなふりをして電話を切り上げた。
「では木曜日にまた。ええ、楽しみにしてます」
世話になった相手なので謝礼は考えている。でもそこで付き合いは終わりだ。面倒くさいのが本音だが自分で言ってしまった手前、遂行しなければいけない。
電話をベッドに放り投げて一度鏡を見ると、今にも舌打ちをしそうな顔の自分が映っていた。
◇
「では最初は何を弾きましょうか」
「そうだな、次にやるコンサートの曲を聴かせてほしい」
「わかりました。練習はしてましたけど、誰かに聴かせるのは初めてなので緊張しますね」
「大丈夫。君ならいつでも最高の演奏ができるよ」
男はの胸中も知らず、ずっと笑顔で期待に胸を膨らませて待っている。
貴方が期待しているのは演奏じゃなくて私の手でしょうに。心の中で毒を吐きながら手袋を取った。
白い鍵盤に指が触れる。離れた位置にいるのに、男の鼓動が伝わってきそうなくらい距離が近い気がする。射貫くのかと思うくらい視線をぶつけているからだろう。この場で彼の理性が崩壊しないことを願うしかないが、果たしてこの男にそんな度胸があるだろうか。
それにしても、どうしてこの手の人間は「他の誰より先に自分が獲得する」ことに執着するのだろう。リクエストを聞くとどこかのお嬢様と同じで、必ずと言っていいほど新曲をねだるのが不思議だ。
ヨークシンで色々助けてもらったお礼に、良かったら貴方のために弾きに行きましょうか――がそう言った時、男から電話越しでもわかるくらいの喜びが伝わってきてうんざりした。
自分で言ったからにはきちんとやり遂げる。相手が人体収集家であっても、貸し借りのない方がこれから先、後腐れがない。
一方で、人体収集家のために無料で弾くという屈辱にも似たやるせなさを感じているのも事実だった。ノストラードファミリーのように、金を払ってくれた方が仕事として線引きできる。
何曲か弾いて休憩しようとすると、用意されていたかのように使用人たちがテーブルをセットし始めた。紅茶やワイン、お菓子や軽食がどんどん用意されていく。その気配りをもう少し他のことへも活かしてくれないものかと苦笑した。
「それにしても、ヨークシンでは大変でしたね」
警戒していることに気づかれないように恐る恐る紅茶に口をつける。自分の身に何かあった時のための保険は用意しているが、いい香りの紅茶にも美味しそうなケーキにも何も入ってないことを願うしかない。
「本当にね。セメタリービルでは責任を取らされるし、本当に参ったよ」
「そういえばあの時とても消沈していましたよね。何か……いえ、私みたいな部外者は知るべきじゃないですね」
部外者という言葉を敢えて強調してみた。実際その通りで、今こうしてここに来ているのはあくまでも仕事だからだとはっきりさせるためだった。
根は小心者、かつ憧れの対象に嫌われることを恐れる臆病者なのだろう。男はその言葉に過敏に反応した。
やっていることが悪女のようだと自嘲する。なんて半端な悪女だろう。
「そうだな……一応は丸く収まったからいいかな。実はあの時、管制室にも賊が侵入していたらしくてね」
「そんなことがあったんですか」
「一部の監視カメラが壊されていたんだ」
「壊された?爆発で壊れたということ?」
「いや、その……管制室の中からカメラや機械が壊されていて、あの時間帯に勤務していた管制室の者が殺されていたんだ」
「えっ……それは、大変だったでしょう」
男の報告は予想していたことだったので特別驚きはしなかった。
あの時見た夢がただの夢とは思えなかった。夢というより、クロロが見たものを見せられたという感覚に近い。
ここへ来た目的の一つはセメタリービルで起こったことの事実確認だ。お礼にピアノを、なんていうのは建前でしかない。
あのクロロという男は賊の関係者だろう。あの男にだけは手のことを知られるわけにはいかない。ほんの少ししか関わらなかったが、こうして色々な事情に絡んでいたことを知ると、相当な切れ者であることは間違いない。
もしあの時自分に何かの念をかけていたとしたら?既にあの男が自分の手のことを熟知していたら?
こちらを気遣うふりをして目的のために近づく――それはと同じことをしているだけだ。しかしクロロの裏表の差を考えると背筋が凍るような寒気がして、思わず両手を握りしめた。
「今日は本当にありがとう。楽しかったよ」
「こちらこそ。喜んでいただけて良かった」
「本当に車を出さなくてもいいのかい?もうすぐ暗くなるけど……」
「ありがとう。でも大丈夫です。この辺りの景色を見ながら帰りたいんです」
男は名残惜しそうにを引き留めようとするが、一刻も早くこの男から離れたかった。
演奏の後にも彼の話に付き合った。コレクションルームに案内された時は嫌悪感でいっぱいだったが、その中に一際目立つものがあった。それを確認しただけでも充分だろう。
ようやく解放されて敷地の外まで出たところで立ち止まった。一応振り返り、誰もいないのを確認してから大きなため息を吐いた。
「あぁ疲れた……」
首と肩を回し、重い感覚に思わず変な声が出た。もう二度と無料のコンサートなんかするものか。
あと2時間もすれば日が沈むだろうか。夕日が眩しいのでサングラスをかけて歩き始める。もう一度振り返ると屋敷が小さく見えた。
景色を見ながら帰りたいというのは一人になりたい口実でしかなかったが、整えられた小道と公園は美しい。歩き続けて屋敷が見えなくなったところで道端のベンチに腰かけた。道路を挟んで反対側にある花をぼんやり眺めた。
舞台の上に立つためには体力が必要だが、今日の仕事はそれ以上にどっと疲れた。精神が削られるような思いだった。もう動きたくない。……
そうしてからどれくらいの時間が経ったかのはわからない。まだ日は沈まないようなので、そんなに時間は経っていないのかもしれない。
時折散歩する人が目の前を行き交う。静かであるのにやけに目立つような雰囲気の誰かが道の向こう側から歩いてきた。それに気づいてからもは花を眺めていた。
どんどん近づいてくる人物は逆光ではっきりとは見えないが、黒いスーツを着ている。お互いの顔を見ないまま距離が近づき、その人物はの目の前を通り過ぎた。
「……帰ろ」
のっそりと立ち上がりもう一度振り返った時、黒いスーツの人物はもうどこにも見えなくなっていた。
◇
深夜、はカフェで本を読んでいた。
休暇を取ったら規則正しい生活をしようと思っていたのに、理想とは正反対の時間の使い方をしてしまっている。
都市部のカフェは夜でも人が多い。こうしてが一人でいても違和感なく店に溶け込んめるくらいには賑やかだ。ドアベルがしょっちゅう鳴るほど人が出入りしているので特に気にかけなかった。
しかし本を読み終わったタイミングで隣の席の椅子が引かれたのには驚いた。一言くらい声をかけてくれてもいいのではないだろうか。
「お疲れ様」
上着とネクタイを取ったクラピカもまた店に溶け込んでいた。周囲には仕事帰りに待ち合わせをしたように見えているだろう。
彼も精神的に疲れているはずだが、相変わらずの無表情で何を考えているかいまいち読めない。正直、怒り心頭になりながら店に入ってくるのではないかとも考えていた。しかし思っていたよりクラピカは冷静だった。
「結構時間かかったのね」
「受け取るまでは良かったが、そこから一時的な保管場所まで運ぶのに時間を取られた」
「スムーズにいった?」
「概ね、そうだと思いたい」
いつも失礼なくらい歯に衣着せぬ物言いをするくせに何故か曖昧な言い方だ。
首を傾げて続きを待っていると、クラピカは小さく息を吐いてやっと疲れの表情を見せた。
「抵抗するだろうとは思っていたが、なかなかの執着ぶりだった」
「暴力も辞さなかった?」
「そこまではしないさ。今後は相手の出方によるが……」
「随分回りくどい言い方するわね。何か問題でもあったの?」
目的のために手段を選ばないのは悪いことではない。自分たちは奪われた側なのだから多少の乱暴行為は致し方ないことだ――と前にクラピカに話したはずだ。そういう思考の女に今更クラピカが気を遣う必要はない。それなのに何を躊躇っているのか。
そもそも今回は、お互いの目的が機会が合致したのでそれぞれ行動しようという「仕事」だったはず。
の目的はオークションの夜について確かめること。クラピカの目的は男が持っていた緋の目を取り返すこと。
先に男の屋敷でが仕事を終えてクラピカに引き継ぐ。緋の目の実物を確認、もしくは所在を聞き出せたらクラピカに声をかけずに先に撤退する。確認できなかったら途中でクラピカを引き止める。
簡単なことのように聞こえるが、運が良かったとしか思えない。しかし結果良ければ全て良し。お互いに見事な結果を出したのに、何の問題があるのだろう。
……というようなことを言うと、クラピカは表情を曇らせた。
「脅すのに君を利用した」
「そうなの?役に立って良かった」
そう言うなりクラピカは眉を吊り上げた。暗に愚かだと言われているような気がした。
交渉がどうしても上手くいかなくなったら=のを出せ、と言ったのは自身だ。本人の許可が下りているなら存分に利用すればいい。
しかし実際に利用されて、男に同情や罪悪感の一つも沸かない自分も最低なのかもしれない。どういうネタで脅されたのかはわからないが、あの男の中で自分の存在がそれほどのものというのも何だか不思議な気がした。
「人の好意を利用する人間を軽蔑する?」
「私がとやかく言えることじゃない」
「言っておくけど、あの人が好きなのは私自身じゃなくて私の手だからね」
「……そうだな」
絞り出したような声だった。肘をついて頭を抱える姿が痛々しさを増している。
仲間の眼や恩師の手を取り戻すこと自体楽しいことではないが、暗い気持ちにさせるくらいなら話を持ち掛けるべきではなかったかもしれない。
「貴方を手伝うとは言ったけど、事前に言っておいた方がよかったかもね」
「何を?」
「時と場合によるけど、私はこれからも人の善意や好意を利用すると思う」
それしか手段がないということではないが、そういうやり方が恐らく自分には合っている。
銃や拳で血に塗れるような戦い方ができないので自然とやり方は限られてくるし、更にその中で自分に合った方法がそれくらいしかなかった。
「私は君のやり方が悪いと思っているわけではない。君が納得してるならいいと思う」
「それにしては何か思うところがあるようだったじゃない」
「それは自分に対してだよ。君のを出さずに違う方法があったのではないかと」
「そういえばなんて言って脅したの?」
「想像はつくだろう?」
「つかない。なんて言ったの?」
「即答するな。言いたくない。勝手に想像するといい」
クラピカとは短い付き合いだが、なかなかに強情な性格であるのは既に心得ている。そう言われてまで聞き出すつもりはない。
お互い上手くいったわね、と言おうとするタイミングをすっかり見失ってしまった。というかもう言える雰囲気ではない。辛そうなクラピカに向かって流石にそんなことは言えるわけがなかった。無神経すぎる考えが恥ずかしくなる。
項垂れて髪で隠れているクラピカの顔が少しでも見えるかと思い、同じように肘をついて覗き込んでみたが叶わなかった。
「貴方にとって好ましいやり方ではなかったかもしれないけど、取り戻せたのなら良かった」
本当に、心からそう思った。屋敷のコレクションルームであの眼を見た時、色々な気持ちがこみ上げてきた。嬉しそうに語る男がその時ほど恐ろしく感じたことはない。思わず自分の手を守るように握りしめたのを覚えている。
緋色のあの眼は奪われ、色々な場所や人を経てあそこへ辿り着いてしまったのだろう。眼を奪った者も売買する者も手に入れようと奮起する者も、全員あの眼に呪われたらいい。そういう奴らに同情も罪悪感も何一つ抱くことはない。
あの男に対しては何も思うことはないが、こうして項垂れているクラピカに対しては負い目を感じてしまう。自分も恩師の手を取り戻したら彼のように打ち沈むかもしれない。
「さっき言った通り私はこういうやり方しかできないから、途中で嫌になったり一人でやりたくなったら事前に教えてくれる?」
「そうすれば方法を変えるのか?」
ゆるゆるとクラピカが頭を上げた。文句はないと言いつつ、やはりのやり方に思うところはあったのだろう。
思わず苦笑した。心苦しいが、そういうつもりで提案したわけではない。
「心がける、くらいは……」
「殊勝なことだ」
困ったようにどちらかともなく笑った。皮肉めいているのに、ようやく場が和んだような気がした。
その緩みのせいでうっかり出たことなのか、元から言おうとしていたことが今出たのかはわからない。
「黙っていなくなったり、気づいた時には手遅れだったりしたらその方が悲しいからね」
言葉にして初めて自分がそれについて怒りを感じていたのだと理解した。
何も教えてくれないうちに大きな秘密だけをこの手に遺して逝った恩師。大きな存在であっただけに、何も言わずに余計なものだけを遺して消えた無責任さには憎悪にも似た気持ちが芽生えた。
自分はそんなに頼りないだろうかと泣いた時もある。悲痛や屈辱、憎悪も残された者にしかわからない。
何気なく組んだ自分の手に視線を落とした。意図しているわけではないのに指先がとんとん、と軽い調子でもう片方の手を叩いている。
「約束できる?」
「いいだろう。だが、破ったらどうなるのか気になるな」
一見穏やかだった恩師は、きっとも知らないほどの激情を内に秘めていたに違いない。この手に残る彼の念がその証拠だ。
恩師を敬愛してはいたが、今では愛憎が混じっている。それでも彼が遺したものや愛したものへの執着を少しだけ理解できるのも事実だ。
もしも恩師が死ぬ前に胸の内をに伝えていたら、一体自分はどう答えていただろう。もし拒絶していたら、自分の手はこんな風にはならなかったのではないだろうか。もっとも、長年世話になった恩師の言葉を拒絶できたか自信はない。
それでも何も言わず、何も伝えず消えることだけは許せない。恩師と同じように、クラピカにも同じことをされたらきっと――
「破ったら許さない。どこまでも追いかけるから」
「どこまでも、か。追いつかれたら私は殺されるのか?」
何故かはわからないがいつの間にか自分が笑っていることに気が付いた。理由はわからないのに妙に楽しい。
最近どこかでこんな話を誰かとしたような――そうだ、セメタリービルでクロロと話したことと似ている。
違うのは状況くらいだろうか。あの時は自分の恨みの話をしていた。恨んでいる相手を怨念のこもった手で殺す、という話だった。自分は許せない相手を殺したいのだろうか。
もしも何も言わずにクラピカが消えたら、どうするかなんて決まっている。
机に置かれた隣の手にそっと触れた。引っ込められるかと思ったが、僅かに驚いたような気配だけを感じた。
「貴方の手を握って引っ張り戻す」
「どこへ?」
「どこへでも。途中で私の腕が千切れようが頭が吹っ飛ぼうが、この手が骨だけになろうが離さないで引っ張っていく」
指先だけでクラピカの手を握る。力は込めていないのに、まるで拘束しているかのような気分になる。自分ではわからないが、彼の目にはどんなオーラが見えているのだろう。
「オートゥイユ先生に育てられたから、あの人の執念深さも受け継いでいると思う」
こちらに負担をかけまいとして消えるのはただの自己満足だ。何も言わずに消える人はきっと二度と戻らない。それなのに半端な優しさだけを遺さないでほしい。
では今のこの気持ちは何なのだろう。仲間意識なのか、ただのお節介なのか。お互いの目的のための共犯者がいて心が安定しているのは確かだが、こんなところにいては駄目だと突き放したくなる衝動にも駆られる。
仕事に誘った以上、今更に突き放す資格はない。今後その立場になるのはクラピカの方だろう。だからきっと、今のこの気持ちが醜い執着へと変わるのはクラピカが黙って消える時だ。
「君の師についてはセンリツから聞いたことがある。穏やかな性格と演奏をする人物と聞いただけに、彼に一番身近な君から話を聞くと肝が冷えるよ」
「優しい人だったけど、色んな意味で真っ当な人ではなかったわね。普通、弟子に価値のある楽譜を模造させて高額で売ったりするかしら」
「ああ……どうりで占いの結果をそっくり書き写せたわけだ」
「それはそれで楽しかったけど」
オートゥイユが拾い上げてくれたのは、彼自身と同じようにもまともな生まれではないことによる憐憫もあったはずだ。こうして一人で生きていけるように育ててくれた以上、きっかけは何でもいい。
きっかけ――ふと手元に意識が戻る。知らないうちにクラピカの指先を弄んでいた。自分でも無意識のうちに手元をいじるのが癖になっているのはわかっていたが、自分の手だけではなく、誰かに対してもそうだとは思わなかった。
前に空港で握手をした時はクラピカの方から行動を起こしたのに、こういう時はまるで人形のように動かずにされるがままだ。手を愛する人体収集家の気持ちは少しも理解したくないが、こういうことがきっかけになることもあるのかもしれない。焦りを悟られないようにそっと手を離した。
「ごめんなさい。つい癖で」
「予行練習のつもりなのかと思ったが、違うのか」
「よこ……嫌なこと言うわね」
「君が手を触る時はいつも……いや、いい。今は楽しそうに見えたから止めなかった」
「そうね、きっと楽しいと思うわ。手袋なしで手を繋ぐのは」
墓から這い出て恨んだ相手を殺すより、引き止めるべき相手の手を取る方が楽しいに決まっている。でもそんな日は来ないで欲しい。愚かな矛盾だ。
そうかもしれないな、とクラピカは穏やかに賛同したのが妙に嬉しかった。
Voi che sapete - W. A. Mozart